土は土に、灰は灰に、塵は塵に
今日は、「土は土に、灰は灰に、塵は塵に」と題して書きたいと思います。
「土は土に、灰は灰に、塵は塵に」の意味
この「土は土に、灰は灰に、塵は塵に」は、欧米のドラマ映画で埋葬の場面で良く耳にするフレーズだと思います。
これは、キリスト教の共通祈祷書(the Book of Common Prayer)埋葬の章に書かれている
We therefore commit his body to the ground, earth to earth, ashes to ashes, dust to dust.
(主よ、遺体を大地にゆだねます。土は土に、灰は灰に、塵は塵に)
の一節にある言葉です。
英語辞典によると、”earth(土)” “ashes(灰)” “dust(塵)” にはすべて「肉体・遺体」という意味だそうです。
つまり、「土は土に、灰は灰に、塵は塵に」は、「earth( 土)」「ashes( 灰)」「dust( 塵)」という類義語を重ねることにより、その前にある「主よ、遺体を大地にゆだねます。」という事を補完していたのでした。(同じ言葉を反復することによる強調法)
因みに、これらの類義語の語源は、旧約聖書の第1書「創世記(ジェネシス)」の第2章第7節に、「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」であると言われています。
このように、「土は土に、灰は灰に、塵は塵に」を注意深く考慮してみると、埋葬の時に唱えられるこの聖書の文言は、土から生まれた人が、死して再び土に帰り、そして、再度、その土から人が生まれるといった生命のサイクルを暗示しており、残された者への「死が終わりでは無い」という、有る意味「救いの言葉」となっています。
土葬される意味
所謂(いわゆる)、「啓典(けいてん)の民」(ユダヤ教キリスト教の聖書、イスラム教の聖典(クルアーン)を信ずる人々)にとっては、その教儀において、人間は死後、何れ訪れる「最後の審判」を経て復活するとされています。
因みに、よく聞く言葉ですが、この「最後の審判」(Last Judgement)とは、ゾロアスター教およびアブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)が共有する終末論的世界観をいいます。
この「最後の審判」の日が訪れると、地上に世界の誕生以来の死者が全員復活し、神の裁きを受けます。そして、永遠の生命を与えられる者と、地獄に墜ちる者を分けられると信じられています。
この「最後の審判」で最も有名なものが、新約聖書の最後の巻に書かれている「ヨハネの黙示録」と呼ばれるものです。
そもそも、神と人間との古い契約の書が旧約聖書であり、新しい契約が新約聖書です。そして、新約聖書は、主に救世主であるイエスキリストについて書かれたものであり、福音書4巻、歴史書1巻、パウロ書簡13巻、公共書簡8巻、そして、予言書「ヨハネの黙示録」で構成されています。
「ヨハネの黙示録」は、その新約聖書の中で最も遅い時期に書かれたもので、紀元1世紀頃に、ローマ帝国による迫害に苦しんでいたキリスト教会に励ましを与えるために書かれた書で、未来や終末のことが、著者のヨハネの預言という形で書かれています。
ただし、象徴的で漠然とした記述が多く、その内容は聖書トップクラスに難しいと言われており、内容の解釈の仕方によっては、全く違う内容ともなることがあり、詐欺まがいの宗教によって悪用される場合もあります。
一時期有名となった「ノストラダムスの大予言」も、この「ヨハネの黙示録」に基づいて作られたと言われています。
話が少しずれたので、元に戻します。
この「最後の審判」の内容については、ゾロアスター教およびアブラハムの各宗教において、その記述が若干異なりますが、共通しているのが、復活の大前提となるのが、この世ので使っていた肉体、つまり遺体が残っているか否かということです。
つまり、遺体を消失(火葬)することは、最後の審判を受ける資格を消失することであり、この為に、葬儀の際に、土葬するのが大前提となります。
しかし、現在においては、同じ「啓典の民」でありながら、先進国において、キリスト教を中心として宗教離れが進み、又、土地の確保・伝染病等の観点から、カトリック教会(バチカン)が「火葬禁止」を解いたことにより、アメリカなどでは火葬率が30%を超えたと言われています。
他方、現在でも宗教に熱心な人々がいることで有名なイスラム教では、最後の審判を受ける権利を奪うことになる火葬などという行為は、今も固く禁じられています。
火葬大国 日本
では、日本の葬儀の方法は、どの様に行われていたのか?
日本へ仏教が伝わると、釈迦がその死後、火葬されたことから、基本的には仏教徒により火葬が行われていました。但し、火葬は、手間暇と金がかかる為に、主に貴族や僧侶など少数の例しかありませんでした。
一方、日本古来の宗教である神道では、土葬が基本であり、従って、江戸時代では、神仏混淆状態であったために、火葬と土葬が混在していました。
明治時代になると、神道が国教となります。これにより「神仏分離令」によって神道の葬送法である土葬に切り替わります。例えば、都立青山霊園や雑司ヶ谷霊園、谷中霊園などは、神葬祭の土葬墓地として整備されています。
しかし、日本独特の理由(土葬用地の不足や衛生上の問題など)により、「火葬禁止令」は直ぐに解除され、各地に火葬場が建立された結果、日本は火葬大国となり、現在では99.98%が火葬であり、土葬習俗が残るのは滋賀や奈良、京都南部、三重など関西を中心にごくわずかとなっています。(年間に100〜200体ほど)
因みに、この土葬が最も多い地域が神奈川県と言われており、少し古い統計ですが、2017年の資料では、全国で389人土葬しているうちの215人(約55%)を占めています。
実は、この数字には、悲しい事実が絡んでおり、215人中205人が、4ヶ月以上の死産した胎児を埋葬したものでした。胎児を焼骨した場合の遺骨はほんの少しになってしまうため土葬が行われています。つまり、この方法(土葬)により、水子供養が行なわれています。
また、2011年3月11日に起こった東日本大震災の際は、火葬場が使えないなど、さまざまな要因により一時的に土葬したケースもあります。宮城県では、約2,000体近くの遺体が土葬を余儀なくされたといわれています。
但し、これは緊急措置の為に、後に火葬されることとなりましたが、土葬用の棺桶ではなく火葬用の棺桶で仮埋葬を行ったため、掘り起こして改葬する際は遺体の損傷が激しく壮絶な状況だったと言われています。
以上の様に、日本では、特殊なケースを除いて殆どが火葬となっています。
日本の土葬問題
では、日本で土葬をすることが出来ないのか?
「墓地、埋葬等に関する法律(昭和23年5月31日法律第48号)」の第 2条第1項に、「この法律で「埋葬」とは、死体(妊娠四箇月以上の死胎を含む。以下同じ。)を土中に葬ることをいう。」という定義がなされていることから、日本においても法律上では、土葬することが可能です。
しかし、同法第4条では、「埋葬又は焼骨の埋蔵は、墓地以外の区域に、これを行ってはならない。」と規定されており、はっきりと「埋葬区画の指定」つまり、埋葬が許可されている場所以外では、土葬することができないとされています。
そして、同法第 5条では、埋葬、火葬又は改葬を行おうとする者は、厚生労働省令で定めるところにより、市町村長(特別区の区長を含む。)の許可を受けなければならない。」とされており、実際には、自治体の条例により、土葬の場合には、特別な許可が必要となります。
更に、新たに土葬する埋葬区画(墓地)を設ける場合には、自治体(市町村)の長の許可が必要となります。
この様に、土葬は法律上では合法ですが、この許可を得るには、新たに設置する墓地の環境問題や風評被害等を勘案する必要があり、かなりハードルが高いのが現状であり、かと言って、勝手に土葬を行うと死体遺棄罪が適用されることとなります。
信教の自由と土葬
日本国憲法第20条では、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」となっています。この場合、「何人に対しても」という文言がある様に、この憲法は、外国人を含めた日本に滞在する全ての自然人を対象にしています。
しかし、皮肉にも、この信教の自由が、日本において騒動を生むこととなります。
この騒動の始まりは、2018年に宗教法人別府ムスリム協会(カーン・ムハマド・タヒル・アバス代表、立命館アジア太平洋大学教授)が、大分県日出町の山中に土葬墓用地約8000平方メートルを取得したことでした。
現在、日本に在住する外国人ムスリム(イスラム教徒)は16万人以上、日本人ムスリムが4万人以上といわれており、この数は年間で約1割の割合で増え続けているそうです。2040年には、70万人に達するという予測さえあります。(但し、それでも日本のキリスト教徒の約半数であり、人口比で言っても1%以下です。)
この騒動が起こった大分県でもムスリムの数が増加しています。彼らは、主に、インドネシア、バングラデシュ、マレーシア、イラン、トルコ、エジプトなどから来日し、農業、漁業関連のほか、自動車やアパレルの工場に従事し、貴重な労働力として地域経済を支えています。
また大分県には、学生・教員ともに半数が外国籍という立命館アジア太平洋大学(APU)があり、大学関係だけでも数百人のムスリムがいるといわれています。
しかし、日本に滞在しているこれらムスリム達に対する死後の受け皿が、全く整っていません。現在、日本でムスリムが埋葬できる土葬墓地は、北海道、茨城県、埼玉県、山梨県など東日本に7カ所、西日本では京都府と和歌山県、兵庫県、広島県に3カ所あるだけであり、九州地区に限っては、一ヶ所もないのが現状です。
そのため、九州や四国在住のムスリムが亡くなった場合は、高い費用と多大な労力が必要となります。その為に、これらムスリム達は、安心して死ねない状態となっています。
そんなムスリムの窮状に手を差しのべたのが、カトリック別府教会でした。
別府教会が所有する神父用の土葬墓地や、大分トラピスト修道院の土葬墓の一画を、好意で地元ムスリムの為に提供していました。しかし、その区画もあまり多くなく、急場を凌ぐだけのものであり、早晩(そうばん)、空きが無くなるのは目に見えています。
宗教と差別
本来であれば、労働力を受け入れた日本政府が、彼らムスリムの人権や、憲法で保障している信教の自由を確保する必要がありますが、元々その土地に住んでいる住民の人権や宗教との関係が複雑に絡んでいる問題であり、実際問題としては、各自治体に丸投げしているのが現状です。
そこで、別府ムスリム協会は、ムスリム専用の土葬用地の整備を決意し、約100区画の用地を取得し、埋葬(土葬)区域として当該自治体に設置許可を申請しました。
申請内容は、合法的であり、住民説明会も繰り返し開かれ十分な説明もなされています。且つ、すでに認可されているキリスト教の土葬を許可された墓地の隣接地であり、周りは森林と自衛隊の演習場しかなく、環境的にも又、風評被害においても心配の無い土地であり、日出町としては、許可を受理しない理由はありませんでした。
しかし、地元住民が、これに反発して、町長や町議会へ反対の陳情書を提出します。その理由としては、
①飲料水を湧水で賄っているので、水質汚染が心配
②米、肉、野菜、卵など地元農作物への風評被害につながる
③土葬墓地の少ない西日本全域から墓地を求めて多くのムスリムがやってく
ることになり、土葬墓地がどんどん増設されていくのではないか
という3点でした。しかし、これは、前に書いた通り、すでにこの地域には、カソリック大分トラピスト修道院の土葬地域が存在しており、今までに、これにより水質汚染や風評被害は発生していません。
つまり、地元住民が最も反対したのが、3番目の馴染みのないイスラム教に対する恐れと土葬という生々しいイメージからくる忌避感でした。
結局、町議会において、この陳情が受理され、計画が頓挫しますが、折衷案として日地町が所有する土地を代替えとすることで解決し、土葬墓地の整備が始まります。
ところが、ここで、代替え地に隣接する杵築市の住民が、これに反対の陳情書をあげる事態となります。これを杵築市の議会が採決し、ムスリム専用の墓地計画が完全に頓挫することとなります。
更に悪い事に、前の日出町長のもとでは条例に適合するとして町有地の売却に向けた手続きが進められていましたが、8月の町長選挙で計画の中止を訴えた安部徹也さんが当選し、17日夜、就任後初めて教会を訪れて、町有地を売却しない方針を正式に伝えます。これにより、この話は、白紙となってしまいます。
確かに、「郷に入れば郷に従え」という考えは方は間違いではありませんが、日本国憲法で信教の自由を認めている限り、この反対運動は、合法的ではなく、あまりに不寛容ですし、ハッキリ言って、キリスト教であれば認めるのに、イスラム教では認めないといった、ある種、差別であると言えます。
この事態が、ニュースで報道されると、SNS界隈で、かなり酷い差別的な投書がされるなど、炎上状態となりました。
世界の希望たれ
しかし、全てが悪い方向に進んでいる訳ではありませんでした。
大分のムスリム協会に、キリスト教別府支部そして、新たに、大分県中津市にある曹洞宗の善隆寺(ぜんりゅうじ)の住職で、曹洞宗の国際的ボランティア団体(シャンティ国際ボランティア会)の元職員で、ムスリムと一緒に活動した経験をもち、ムスリム理解者である自覚大道(じかくだいどう)さんが、共にこのムスリムの窮状に手を貸すこととなります。
2021(令和3)年6月以来、別府ムスリム協会のアバス代表や大分トラピスト修道院の院長らと共に、自覚大道さん達は、厚生労働省を訪れて、信仰に基づいた埋葬が可能な「多文化共生公営墓地」の設置を求めた陳情書を提出しています。
また、大分のみならず、日本各地でも仏教、キリスト教そしてイスラム教が、この問題を共有し、宗教の垣根を超えての活動が広がっています。
そして、この日本における宗教大合同が先駆けとなり、一つのテストケースとなり、今や宗教戦争化している中東の平和を模索する上で、大きな光になるのではと思っています。
これから日本は、高齢化の時代を迎え、海外からの新たな労働力を必要としています。確かに、外国人を受け入れる事により、色々な問題が発生します。
しかし、日本以外のものを排除するのではなく、相互理解によりより素晴らしい社会を作ることが大切であり、諸外国が成し得なかった人種及び宗教の垣根を超えた大合同を、日本では、実現できると信じています。
日本よ、世界の希望たれ!