天使になった歌姫 本田美奈子
中山美穂さんを追悼する記事の中に、本田美奈子さんの名を見つけたので、今日は、「天使になった歌姫 本田美奈子」と題して書きます。
アイドル 本田美奈子
本田美奈子さんは、1985年(昭和60年)4月20日に東芝EMIから「殺意のバカンス」でアイドル歌手としてデビュー。
1986年(昭和61年)2月5日に「1986年のマリリン」をリリース。へそを露出させた衣装や激しく腰を振る振り付けなど当時のアイドル歌手としては異例の演出と相俟って大ヒットとなります。
この衣装は、彼女自身のアイデアで制作されたもので、当時ステージでの振り付けや衣装の参考にしていたマドンナから影響を受けたものと言われています。
この様に、アイドルとしては異質でしたが、本田美奈子さんの歌に対する姿勢は、真摯であり、アイドルだからという理由で妥協せず、周りからは「なまいき」と言われることもありました。
その後も、いろいろなジャンルの歌を歌いますが、本田美奈子さんにとっては、アイドルという世界は、狭くて窮屈なものだったのでしょう。
アイドルからの脱却を図り、ロック・バンドを組み、イギリスのロック・ギタリストのゲイリー・ムーアやクイーンのブライアン・メイから楽曲提供を受け、スライ&ロビーのライブに客演するなどロック方面でワールド・ワイドな活動を行います。残念ながら、このロックへのチャレンジは興行的には振るわず、これ以降しばらくの間、本人にとっても大きなスランプの時期となります。
ミュージカル、クラッシックとの出会い
そんなスランプの時に出会ったのが、ミュージカルでした。
1990年(平成2年)、ミュージカル『ミス・サイゴン』のオーディションを受け、約1万5000人の中からヒロインのキム役に選ばれ、1992年(平成4年)5月5日『ミス・サイゴン』初演から一年半のロングランをやり遂げ、その歌唱力と演技力が広く認められる様になります。
「ミス・サイゴン」の初演中の1992年7月4日に本田美奈子さんが、上の動画にある「命をあげよう」を歌い出す直前に、舞台装置に足を挟まれる事故が起こりました。この事故で彼女は足の指4本を複雑骨折し、19針を縫う全治3ヶ月の重症を負います。
当時の共演者だった市村正親さんによると、靴の中には大量の血が溜まっており、普通の人ならとても意識を保てないような大怪我だったと言います。しかし、本田さんは代役の役者が来るまで決して舞台を降りようとはしませんでした。それだけこの舞台にかけた彼女の覚悟が見えるエピソードです。
この様な大怪我にも関わらず3週間で舞台復帰し、残りの公演を無事演じ切っています。『show must go on』、これこそ真のプロです。
その後も、『屋根の上のバイオリン弾き』のホーデル役、『王様と私』のタプチム役、『レ・ミゼラブル』にエポニーヌ役などで出演し、その才能を更に高める様になります。
同時に、数枚のアルバムを発表して、レコーディング・アーティストとしても復活を果たします。
この時期(1994年5月25日)に19枚目のシングルとして発表したのが、「つばさ」です。
「つばさ」は、間奏部分で大きく伸ばす超ロングトーンが特徴的で、10小節強、時間にして28秒にも及ぶもので、本田美奈子さんの楽曲のなかでも、「アメイジング・グレイス」と双璧をなす人気を誇るものです。
後に、親友である岩崎宏美さん、声優の林原めぐみさん、歌のお姉さんで有名なはいだしょうこさんや陸上自衛隊中央音楽隊所属の鶫真衣(つぐみ まい)さんもこの曲をカバーしていますが、歌い手の能力が試される非常に難しい曲です。
話が少しずれますが、この陸上自衛隊中央音楽隊とは、本田美奈子さんの育った街にある陸上自衛隊朝霞駐屯地に駐屯する、防衛大臣直轄部隊の一つであり、各職種学校(音楽学校)と同等の扱いを受けており、年間90回ほどの特別儀仗演奏も含めて、年間190回ほどの演奏を行っている部隊です。
そこで勤務する隊員のほとんどが、音楽大学・音楽短期大学および音楽専門学校の出身者であると言われています。その中でも歌手は、プロのオペラ歌手や声楽者に匹敵する才能を持っているそうです。
ロングトーンはもちろんのこと、オペラ歌手である森公美子さんも驚いていますが、地声からハイトーンまで、パッサージョ(チェンジ)せずに駆け上がっていく歌い方は、唯一無二であり、これ故に、本田美奈子さんの声を指して「天使の声」と呼ぶ様になります。
パッサージョ(チェンジ)とは何かというと、
低い音から音階を歌っていくとき、そのままで歌っていこうとすると苦しくなる高さの音にたどり着きます。そこで、それまでとは声の出し方を変えて、薄くて、軽い音、もしくは頭に抜けるような音に切り替えると、さらにもう少し高い音まで歌えるようになっていきます。この急激に発声の状態が変わる高さの音を、パッサージョ(イタリア語)または、チェンジ(英語)と呼んでいます。
この後も、本田美奈子さんは、クラッシックやゴスペル等にも果敢に挑戦し、その領域を広げていきます。
白血病の発病
2004年11月に、画数を31画となるよう、名前の後に「 . (ドット)」をつける改名をします。本田美奈子さんは、「ドットを付けると画数が31画になり、開運のために変えました。いつでも歌手として人として女性として輝いていたいのでドットを付けました」とにっこりと微笑んだそうです。(現在では、芸名は「本田美奈子」ではなく、「本田美奈子.」と記述されています。)
しかしながら、この時期頃から、はっきりと白血病の症状である風邪に似た症状や微熱が続きます。もしかしたら、この改名は、「.(ドット)」ではなく(ピリオド/終止)の意味であり、本人は無意識に未来を予見していたのではと思われます。
翌2005年(平成17年)1月12日、急性骨髄性白血病、その中でも、200万人に一人の確率で発症する難病で、再発性が高い「治療抵抗性の白血病」と診断され、緊急入院し、翌日にはその事実が公表されます。
この事実が発表されると、南野陽子さん、岩崎宏美さんら親友が見舞いに訪れますが、親友たちに心配かけないために、明るく振る舞います。
寛解(かんかい/白血病等の難病を完治させること)の為に、2度の化学治療を行いますが、白血病を治す事はできませんでした。
周りには明るく振る舞っていましたが、闘病中に綴っていたという日記には「苦しいのはもう嫌」、「神様は歌わせてくれないのですか」と書かれていたそうです。
そんな状況を察して、本田さんの楽曲プロデューサー・井上鑑氏が、その時に、福山雅治さんのコンサートに同行していたのですが、本田美奈子さんのファンであった福山雅治さん以下メンバー全員の承諾のもと、ビデオレターを作成し、本田美奈子さんへ渡します。そこには歌詞のない楽曲を歌い上げる福山さんの姿がありました。歌詞のない楽曲には「早く回復して美奈子.さんに歌詞を付けて歌って欲しい」というアーティストたちのメッセージが込められていたそうです。
本田さんが所属していた事務所の高杉敬二社長は、その当時の様子を「美奈子.が福山君のファンだったこともあって、嗚咽(おえつ)したというか泣いちゃった」と、さらに「福山君がデモテープに出た時に『まさか』、『えー!』って言って泣いちゃった。『素敵(すてき)ね』っていうことを言っていました。『耳に残るし、素敵ね』って」と語っています。
本田美奈子さんが、曲に歌詞をつける事はできませんでしたが、本田美奈子さんが、亡くなって1年後に歌詞が付けられます。福山さんらが、本田さんが闘病中に記していたメモを元に魂のメッセージを込め、「wish(ウィッシュ)」として世に送り出します。
「ささやかな幸せと 好きな歌を信じて」で始まるこの歌。最後は「かけがいのない日々 今そこにある幸せを・・・」で終わっています。この歌詞には、本田さんの日記に記された「生きたいそして歌いたい」という想いが込められています。
化学治療で白血病を消し去ることが出来なかったので、骨髄移植が検討されますが、今ほど骨髄ドナーが居なかった時期であり、骨髄バンクでドナーが見つかるまでの猶予すらない病状であったことから、同年5月、臍帯血移植を受けます。
その結果、一時は退院できるまで症状が改善します。この時によく歌っていたのが、「アメージンググレイス」だったそうです。
7月末に、一時帰宅した本田さんは、自宅の部屋から見えるけやきの木を飽きもせずに眺めていたそうです。そして、生きていることそしていつか歌える様になることを願っていました。
しかし、運命は過酷でした。
1ヶ月後の定期検査で、白血病が再発していることが分かり、再度入院することとなります。
9月8日に再入院し、輸入新薬による抗癌剤治療を受けます。翌月には再度一時退院。
白血病との戦いは、一進一退となりますが、11月に入って、肺への合併症から容態が急変し、危篤状態となります。
岩崎宏美さんが、前日に病室に駆けつけて、声をかけますが、意識が回復することなく、2005年11月6日午前4時38分、家族、親族、事務所関係者そして友人たちに見守られながら息を引き取ります。享年38歳。あまりに早い死でした。
40代になったらジャズに挑戦したいと言っていた美奈子.さん。もし今も生きていたらどんな歌を聞かせてくれたのでしょうか。ジャズへの夢は、見果てぬものとなりました。
告別式には、多くの友人や芸能関係者、生前関係のあった人々が集まり、美奈子.さんの早い死を悼みました。
堀越学園編入時から親交のあった親友である南野陽子さんは、告別式で報道記者たちのコメントに答え苦しい胸の内を話し、その後、泣き崩れます。
また、岩崎宏美さんは、告別式直後の香川のコンサートでは彼女が一番繰り返し歌ってきたはずの「聖母たちのララバイ」の歌いだし「さあ、眠りなさいつかれきった体を投げ出して」の部分で躓き、舞台裏に引っ込んでしまうという非常事態となっています。美奈子.さんの死を受け入れられなかったのでしょう。
出棺の時には、美奈子.さんが好きだった「アメージンググレース」が流れます。
デビュー以来、22年にわたり本田さんと文字通り、二人三脚で仕事を続けてきた高杉さんはこう述懐しています。
「どんなに苦しくても笑顔を絶やさなかった。人の幸せばかり思い続けた無私の人でした」
本田さんの死後、高杉さんはその遺志を継いでNPО法人「リブ・フォー・ライフ美奈子基金」を創設し、白血病をはじめとした難病患者やその家族の闘病生活における困難や悩みをやわらげ、どんなときにも勇気や希望をもって病気に立ち向かえるよう、音楽をはじめとするエンタテインメントによる精神的サポート、病気や治療に関する情報の提供などを行っています。
かくして、美奈子.さんは、白血病の患者たちの天使の歌姫となったのです。
また、東武東上線朝霞駅前のロータリーに作られた、この町で育った歌手、本田美奈子.さんを悼むモニュメントには、こんな詩が刻まれています。
「心が開いて、心の目で周りを見渡してごらん。
きっと小さな幸せの芽が見つかるよ。
そこで、そこから少しずつ笑顔が生まれてくる。
笑顔が生まれはじめたら喜びに変わるのももうすぐ」
常に、前を向き、いろんな事に挑戦し続けた美奈子.さんらしい言葉だと思います。