「べらぼう」 遊女編
大河ドラマ「べらぼう」の第1話の世帯視聴率が、12.6%と今まで最低だった前回の「光る君」の12.7%の最低記録を更新したそうです。
しかしながら、今回の大河ドラマの脚本家は、森下佳子(もりした よしこ)さんです。これからこのドラマが、更に注目される様になるのは間違いありません。
森下さんは、「世界の中心で、愛をさけぶ」「JIN-仁-」「義母と娘のブルース」などで有名な脚本家さんですが、思いっきり登場人物に感情移入させた後に、残酷な方法で退場させるのでも有名です。
例えば、大河ドラマ「おんな城主 直虎」の処刑シーン、NHKドラマ10「大奥」での平賀源内等々。
すでに第1話で、蔦屋重三郎と花井に本の楽しさを教えた元花魁・朝顔をあの様な形で退場させています。
第1話に登場した人物でも、ヒロインとして登場している小芝風花さんが演じる花の井、老中・田沼意次の嫡男の田沼意知(たぬま おきとも)などが、この先、この生贄になるのではと思われます。
花の井については、今回の遊女編で、田沼意知については次回の幕府編で詳しく紹介します。
さて、本題に入ろうと思いますが、まず、遊女を取り巻く環境から説明していきます。
吉原の妓楼と楼主
吉原の表通りにある妓楼は、大きく、大見世、中見世、小見世の3種類あります。
大見世は、有名な花魁を有する一番規模の大きい妓楼で、間口13間(約24m)、奥行き22間(約40m)とかなり広々としており、遊女や奉公人合わせて、百人ほどの規模だったそうです。
各見世は、すべて2階立てで光を取り込む為に中庭があります。1階には、妓楼の主である楼主がいる内所の他、土間や台所、内風呂やトイレがあり、奉公人はここで生活していました。さらにその奥には、楼主の居室や奉公人の雑魚寝部屋、二階には遊女の部屋、客と過ごす場や宴会場などがあったそうです。
また、一階には遊女たちがいる張見世があり、客は、格子を通して中の遊女を見ることができる様になっており、初めての客は通りに立って格子越しにお気に入りの遊女を見つけます。これを、「見立て」と呼んでいました。
二階の階段そばには、遣手部屋があります。この遣手部屋というのは、遊女を監督する遣手(やりて)の部屋のことで、遊女や客の動きを見逃すまいと目を光らせていました。
一方、裏通りに入ると、長屋造りの建物で、間口六尺(1.8m)の畳二畳ほどしかない部屋が、狭い路地に面してずらりと並んでいますが、これが「切見世」と呼ばれるものです。
この「切見世」の名前の由来は、男女の事を「一切(ひときり)」、つまり線香1本が燃え尽きるまでの十分程度の交渉で終わらせねばならない事からきています。その為、“切見世”は“チョンの間”とも呼ばれていました。
「切見世」の内部は、敷布団一枚が敷かれているだけで、事をするだけの最低の物しか置かれていません。また、当然厠(トイレ)も無く、客も遊女も道端で用を足し、あたりには異臭が立ち込めていました。
この「切見世」で働いている遊女のほとんどが病に罹っていたそうで、特に、性病持ちの遊女は「当たれば死ぬ」として “鉄砲女郎”と綽名されたほどでした、ここが、遊女が最後に流れ着く先であり、まさしく、地獄の底でした。
一目顔を見るだけでも何十両も積まねばならない花魁と50文で体を売る女郎、その光と影が一つとなって存在していたのが、この吉原という遊郭でした。表の吉原が華やかであればあるほど、この最下位の遊女たちの影も深いもとなっていきます。
さて、そんな見世ですが、各見世には当然主人である「楼主」がいます。
楼主は内所に座り、遊女や奉公人一同の動き、客の出入りなどに気を配っていたわけで、日夜、多くの客が出入りするし、いろいろな悶着も多く、楼主にかなりの経営手腕と管理能力がなければ、妓楼はとうていやっていけません。
その楼主の中には、教養人もいました。
江戸町一丁目の大見世「扇屋」の楼主は、俳名を墨河という俳人で、江戸時代後期の有名な浮世絵師、戯作者である山東京伝と親しかったと言われています。
この山東京伝ですが、こよなく吉原を愛しており、なんと2度も花魁の身請けをして、妻として家に迎えいれています。(1度目は死別しています。)
又、京町一丁目の大見世「大文字屋」の二代目楼主は、狂名を加保茶元成といい、狂歌の吉原連の指導者で、大田南畝とも交流がありました。
この「大文字屋」の初代は、一風変わった経歴をもつ楼主であり、大田南畝はその著『奴師労之』に、大文字屋の初代楼主について、次のように書いていいます。
「もともと河岸見世と呼ばれる低級で格安の妓楼を経営していたが、安いかぼちゃを大量に買い込み、遊女の惣菜はかぼちゃばかりだった。こうして金をため、京町一丁目に大見世を持った。」
その為に、初代は、「かぼちゃ」とあだ名されていたそうです。そして、二代目はそれを逆手にとって狂名を加保茶元成(かぼちゃ もとなり)と名乗っていたそうです。
楼主の多くは、狂歌の集まりである吉原連に名を連ね、作家、絵師、落語家、本屋など江戸の文化を支えた錚々(そうそう)たるメンバーとなり、江戸文化の文化サロンとして吉原を栄させてはいますが、同時に、遊女を食い物にした忘八者であり、ここにも吉原の光と影が見て取れます。
「べらぼう」の第1話で、吉原の楼主の寄り合いのシーンで、膳にかぼちゃ料理が並べられていたのですが、恐らく、「大文字屋」の初代の逸話に基づいたシーンであると思います。
吉原には、楼主の他に、多種多様の奉公人がいました。
雇料理番や風呂番、不寝番(ねずのばん)は、「雇い人」と呼ばれていました。二階の廊下を拍子木をうちながら歩き、まさに寝ずの状態で時間を告げたり、客と遊女が寝ている部屋の行灯に定期的に油を補充したりと結構ハードな仕事でした。
また、「若い者」という、接客する男の奉公人もいました。この「若い者」とは、若者を指していっているわけではなく、客に揚代を請求したり、待たされ続ける客をなだめたり、はたまた遊女の機嫌をとったり。寝床のまわりを屏風で囲むなど、何でも屋のことを言います。
宴席に欠かせないのが、幇間(ほうかん/太鼓持ち)と芸者や舞妓達です。酒席で小咄を披露したり踊ったりする芸人であり、遊女とは違い客を取ることはしませんでした。その為に、必ず2名1組でお座敷に上がっていたそうです。
その他にも、遊女の髪を結う「髪結」や、遊女と客の手紙を仲介する「文使い」、仕出し料理屋、湯屋のほか、様々な行商人もこの吉原を行き交っていました。
遊女の悲しき格差社会
ドラマの中で蔦重が、言っている通り、吉原の遊女たちは好き好んで吉原に居る訳ではありません。
表向きは幕府も人身売買を禁じていたため、「遊女とは妓楼で働く奉公人である」(10年の年季奉公)という意味合いになっていましたが、それはあくまで建前であり、実際には、女衒(ぜげん)と呼ばれる「人買い」に、親や親類、時には夫が、娘や妻を売り渡していました。江戸市中の場合は女衒を使わず直接、妓楼に親らが娘を売ることもあったそうです。
金額に関しては、平均で3~5両(現在のおよそ30~50万円)で幼女を女衒が買ったという記録が残っています。また、下級武士の場合だと18両(およそ180万円)で娘が買われたという記録もあります。
さて、吉原は、ドラマでも触れられていますが、格差社会であり、厳格な格付けがされています。
身売りから花魁までのコースは、以下の通りとなります。
禿とは、「はげ」ではなく廓言葉で「かむろ」と呼びます。この禿は、元は「はげ」=毛が無い=下の毛が生えていない童女の意味だそうです。
その禿の中でも、容姿などから楼主やおかみが将来の花魁候補と見込んだ禿は「引込禿」となり、芸事や教養などの英才教育を受けるようになります。
この禿に限らず、吉原にいる花魁や遊女達は、読み書きは当然のこと、その他の芸事や教養を楼主から厳しく叩き込まれます。
その為に、驚くことに、吉原の花魁や遊女達の識字率は、現在と同様にほぼ100%となっており、吉原では、貸本という生業が充分商売として成立していたと言われています。
さて、この「引込禿」が、15歳になると「新造出し」といってお座敷デビューをします。しかし、この時には、「花魁候補生」はまだ客と同衾しません。
しかし、才覚が見込めない「禿」や10歳以上16歳未満で吉原に入った女性は、「留袖新造」といって客を取りますが、まだ、この時点では一人前とは認められません。
そして、17歳になると「花魁候補生」は、初めて客と同衾します。これを廓では、「水揚げ」と言います。
その後は、吉原中を「花魁道中」をして花魁としてお披露目されることとなります。その他の遊女達は、張見世で紹介され一人前の遊女として認められることとなります。
その先は、本人の才覚ひとつで、最上位の「呼出」までなることも可能であり、完全に能力主義の世界でした。
吉原遊女の一日
そんな遊女達の毎日の生活は、かなり過酷な状況でした。
当時の吉原の妓楼は昼見世、夜見世と1日2回の営業でした。正午頃に始まる昼の部にそなえ、化粧などの身支度を整えます。昼の営業までの自由時間があり(売り込みの商人の相手、手紙を書いたりする)、遊女の見習いの禿(かむろ)はこの時間帯に手習いをしたといいます。昼見世は午後4時頃終了。遊女たちは遅い昼食を摂り、夜の営業まで自由時間となります。
日没と同時に夜見世の営業が開始されます。遊女は張見世に並び、客の指名を待ち、客が指名すると二階に上がります。時には複数の客の指名を受けることもあります。夕食は暇を見て一階であわただしく済ませます。妓楼の営業は午前2時までですが、客と同衾している遊女には決まった終業時間はなかったといいます。
泊りの遊客は夜明け前に店を出ます。この時に、名残惜しい客と早く客を返して二度寝したい遊女との間で丁々発止が行われていたそうです。これを「後朝(きぬぎぬ)の別れ」と呼ばれていました。午前10時頃起床し、入浴、朝食、掃除をします。
この1日サイクルが、正月、盆の2日程度の休みのみで1年中続きます。そのため多くの遊女は万年寝不足ぎみだったとか。本当に肉体的にも精神的にもたいへんだったことでしょう。
花魁など上級遊女は自室が与えられ、食事は1日3食で、3度とも2~3品の内容で、禿が部屋まで運んでくる。見習いである新造や下級遊女は共同生活で、妓楼の食堂で食べるも、かなり質素な食事だったそうです。吉原は、遊女の格によって暮らしぶりには相当な差がありました。
とにかくこうした恵まれない待遇から脱したければ出世するしかありませんでした。そのため、遊女たちは芸を磨き、お客を悦ばせるためのテクニックを磨きました。そして、ただひたすらに年季が明けるのを待ち望んだのです。
吉原をはじめとする遊郭で働く遊女たちは、客を自分につなぎ止めるために、様々な努力をしていました。それが、「心中だて」と言うもので、「あなただけは特別」という心からの愛を宣誓する時に行う行為であり、腕に客の名を刻んだり、血判で「起請文」を書き、客に一途であることを仏に誓ったりしていました。
これについては、古典落語「三枚起請」に面白おかしく描かれています。この古典落語は、遊女と客の駆け引きが面白く、サゲが秀逸なものとなっています。
また、現在でも、小さい時に誰かと約束をする時に
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーます、指切った」
と言いますが、実はこれも「心中だて」という風習が元になっていると言われています。
この「心中だて」の中でも最も切実なものとして、小指を切り落として送ると言う行為がありました。
ただし、この小指の大半が、米粉で作った偽物であり、次に会った時にしっかりと両腕の小指がついていたなんてことはザラで、客もこれを咎めないのが「粋」とされていました。
遊女が自由になるには
吉原には「年季は10年、27歳~28歳まで」という原則がありましたが、実際は不特定多数の客と行為をすることで性病に罹患したり、過労や集団生活で伝染病にもかかりやすく、また無理勤めさせられて病死することや、年季を偽られ、働かされることもあったようです。
年季が明けた時、情のある楼主は、遊女がまじめに勤め上げたときは、多少の前借が残っていても棒引きにしました。これを「証文を巻く」といいます。
年季が明けると、楼主が、親元に帰すなり、馴染みの客と所帯をもたすなりしたようです。ただこのような例は稀でした。殆どが、この年季が明ける前に、病死するのが常だったようです。
また、妓楼に置いても仕方がないとみたら、宿場町の飯盛女として旅籠や、岡場所などに転売させられてしまうこともあり、これを「住替え」といいました。(飯盛女とは、旅籠で身を売っている女性を言います。)
しかし、年季が明ける前に死ぬ以外に自由となる方法が、一つだけありました。それが「身請け」という制度です。
「身請け」とは、どういう意味かというと「客が店にお金を払って商売から身を引かせること」です。お客がお気に入りの遊女や女郎を自分のもとに引き取ることができますが、それもなかなか大変なことだったようです。なぜなら、この「身請け」には膨大なお金が必要だったからです。
身請代 は、 その遊女の身代金 、 遊女のこれまでの借金 、これから稼ぐ予定だったお金 、 妓楼のスタッフや遊女の妹分らへのご祝儀 、 盛大な送別会の宴会料 、雑費などが加算されています。
下級クラスの遊女でも40~50両(現在の金額でおよそ400~500万円)、中流クラスの遊女なら少なくとも100両(およそ1000万円)、トップクラスの花魁ともなれば1000両(およそ1億円)以上もの身請金を払ったという例もあるほどでした。
その中でもトップクラスなのが、松葉屋の花魁・瀬川でした。
この瀬川という源氏名は、代々引き継がれており、享保から天明まで9人いたといわれています。
この花魁・瀬川の名を継ぐには、まれにみる才色双絶で、三味線、浄瑠璃、笛太鼓、舞踊などの遊芸はもちろん、茶の湯、和歌俳諧、碁、双六、蹴鞠の技にも達していたうえに、文徴明風の筆をよくし、易の造詣もあるなど名妓の誉れある遊女しかなれませんでした。
その瀬川の中でも、特にその人生が波瀾万丈だったのが、五代目瀬川。「べらぼう」に登場する遊女・花の井です。
五代目瀬川(花の井)
花の井が奉公する「松葉屋」は、代々の名遊女「瀬川」を生み出してきた妓楼でした。
この妓楼は、かなり大きく、遊女、その見習いを含め、約50名ほどを抱える大所帯でしたが、その中でも群を抜いて才覚があったのが、ドラマで登場する花の井でした。
花の井は、有名な名跡・五代目瀬川を継ぐ花魁になります。
安永4年(1775年)に五代目瀬川が、鳥山検校に落籍されたときは江戸中の評判となり、田螺金魚による戯作『契情買虎之巻』ができたほどでした。
この時の身請け代は、1400両(代のお金に換算すると約1億4000万円)という破格なものでした。身請け後、真間の継橋(現在の千葉県市川市)で囲われていました。
五代目瀬川を身請けした鳥山検校とは、幕府公認の男性盲人組織である当道座の最高位である検校の一人でした。
この当道座は、平曲や三曲などの音楽芸能や按摩、鍼灸などを生業としている組織であり、位が序列化されていて、最下位から検校の最上位になるまでには719両ものお金が必要でした。そうしたことから、上記の芸能、按摩、鍼灸以外に金貸しも認められていたと言われています。
検校の中には、高利貸しを行うことで大金を蓄財する者もいましたが、鳥山検校もその一人でした。
お金を借りた御家人や旗本が窮迫し、出奔すると言った事態が多発。幕府はこれを問題視し、安永七年(1778年)に鳥山検校を含む複数の検校たちが、処罰を受けることとなります。
鳥山検校は、この処分により身分・財産一切を没収されます。瀬川(花の井)のその後については、記録が残っておらず、その後の消息は謎とされています。
さて、「べらぼう」の脚本家・森下佳子さんは、花の井の身請け後をどの様に描くのか楽しみです。
以上が、「べらぼう」遊女編です。
これら遊女については、古典落語の「明烏」「三枚起請」「お直し」「お見立て」「紺屋高尾」「付き馬」など数え上げれがキリないほどであり、吉原の遊女の置かれた状況と共に、江戸の「粋」と「艶」を十分に味わう事ができます。
次回は、「べらぼう」の時代の幕府の状況を書きたいと思います。