日本があったから世界は救われていた アマルティア・セン
オリンピック競技に対する熱気も少しは、冷めてきた様ですが、最近では、オリンピック選手のその後が、注目されています。
8月13日の帰国時の会見で、卓球女子の早田ひな選手が、報道陣から「やりたいこと」を問われたことに対して、「鹿児島の特攻資料館(知覧特攻平和会館)に行きたいです。生きていること、卓球ができているのは当たり前じゃないのを感じたいからです」と答えたことが、問題視されています。
早田ひな選手のこの発言に対して、パリ五輪で早田と堂々と戦い、早田に中国版SNS「ウェイボー」の使用を薦めた中国人選手が、早田選手のフォローを外したり、ともに3位の座を争った韓国人選手とは試合後に熱い抱擁を交わし、両国のファンからも声援が送られたのに、韓国のネット上では早田選手の発言に対する批判が沸き起ったそうです。
日本語で読む限りでは、早田ひな選手の発言は、戦争や特攻の美化ではなく、パリオリンピックが開催されていながら、ロシヤとウクライナ、レバンノンとイスラエルなど、戦火が絶えず、無数の人が苦しみ死んでいく状況の元でオリンピックに参加している当該アスリート達への気持ちを考えたうえでの言葉であることは、容易に察することができます。
早田選手の言葉が、中国や朝鮮ではどの様に報道されているのか分かりませんが、恐らく、「特攻資料館」のみが切り出され、その背景にある真意を無視して報道されたのではと推測されます。
これは、中国、韓国のマスコミだけの問題ではなく、日本の「自虐史観」と中国・韓国の「被害者意識」がセットになった為におきた事例であると思います。(朝日新聞による従軍慰安婦に関する事実無根の報道がいい例です。)
しかし、この早田選手の発言は、図らずも日本の基礎教育が間違っていないことを示すいい例となります。
戦後80年が経過し、この戦争を体験した人が減っていく状況により、戦争の悲劇が風化しつつある中で、早田選手の様な若い人が、戦争の悲惨さを訴えていることに、希望が見えてきました。日本はまだ、落ちぶれていないことを確信しました。
この様に、日本の基礎教育の有用性を早くから見抜いていた学者が、インドの経済学者兼哲学者のアマルティア・セン教授でした。
そして、このアマルティア・セン教授が、講義でしばしば言っていたことが、今日の表題である「日本があったから世界は救われていた」でした。
では、まずこのアマルティア・セン教授とはどういう人なのかを説明していきたいと思います。
アマルティア・セン教授とは
1933年、アマルティア・セン教授は、インド東部のベンガル地方サンティニケタン(Santiniketan)に生まれます。
1943年、アマルティア・セン教授が9歳の時に、300万人を超える餓死者を出したベンガル大飢饉が発生し、セン教授の通う小学校に飢餓で狂った人が入り込んだことに衝撃を受けます。またこの頃、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の激しい抗争で多数の死者も出ており、これらの記憶や、インドはなぜ貧しいのかという疑問から経済学者となる決心をしたと言われます。
この時期に、小学校で習った日本史に興味を持つこととなります。特に、聖徳太子の「十七条の憲法」が頭から離れなかったそうです。
この「十七条の憲法」の第1項目が、「和を以(も)ちて貴(たっと)しとなし、忤(さからう)こと無きを宗(むね)とせよ。」と書かれており、和という概念を大切にし、そして和という概念を外すことのないようにすることが大切であることを説いています。
そして、最後(十七条)には「夫(そ)れ事は独(ひとり)断(だん)ずべからず。必ず衆(しゅう)と與(とも)に宜(よろ)しく論(あげ)つろうべし。」(物事は一人で決めてはいけません。必ずみんなで議論して判断しなさい。)と結んでいます。
これは、民主主義の原典ともいえる「マグナ・カルタ」が作られる約600年前に、既に日本では、この考え方(民主主義)が生み出されていたことを示しています。アマルティア・セン教授は、この史実を知って、民主主義は、西欧の専売特許でないことに気が付きます。
それ以降、日本に関心を持つようになり、日本について更に研究することとなります。
カルカッタ・プレジデンシー大学(現在のコルカタ大学)の経済学部を卒業し、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで修士号及び博士号を取得。オクスフォード大学で教鞭をとり、ハーバード大学の経済学と哲学の教授となり、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジの学寮長(マスター)を努め、現在ではハーバード大学に在籍しています。
1998年 - 「経済の分配・公正と貧困・飢餓の研究」における貢献によりノーベル経済学賞受賞します。
「経済学のマザーテレサ」「経済学の良心」として名高く、アジア人として初めてノーベル経済学賞を受賞。その研究の範囲がノーベル経済学賞に収まりきらないことから、同賞受賞者の中でも異色の経済学者と言われています。
そのセン教授は、「戦後の日本の経済成長はアジアのモデルとなった」と日本の成長モデルを高く評価し、ハーバード大学の授業でも度々日本について言及していると言われています。
セン教授によるミクロ経済学の視点から貧困のメカニズムを説明した研究は、経済学に限らず社会科学全体に衝撃を与えており、その理論の中核をなす理論が、「飢饉の分析」「厚生経済学」「潜在能力」「人間開発指数」です。
その理論の中でも最も代表的な理論こそが、「潜在能力」(capability/ケイパビリティ)です。
「潜在能力」とは何か
投票という権利を与えられたとしても、十分な教育を受けることができず、政治や投票の仕組みも分からず、自らの政治的主張をどのように訴えればいいのかわからない。このような人々が社会にいたらどうでしょうか。その社会は発展するでしょうか?
つまり、セン教授は、政府は、国民にただ権利だけを与えるだけではなく、その権利を有効に利用できる知識及び生活状況にもコミットするべきであると主張しています。このさまざまな権利や自由といった「財」を活用する能力こそが、潜在能力と呼よばれるものです。
そして、この潜在能力が、貧困から脱出するための最大の道具であると。
では、この潜在能力を高めるにはどうすればいいのかを、セン教授は、著書「アイデンティティと暴力:運命は幻想である」の中で、これを示しています。
何故、日本は近代化国家設立に成功したのか
セン教授が、着目したのは日本の明治維新でした。
19世紀後半のアジアでは、帝国主義の嵐が吹き荒れ、日本も例にもれず、この嵐の中で、近代国家として船出を行います。
日本は、この帝国主義の嵐を富国強兵により乗り切ろうとします。
そして、当初は、欧米モデルを採用しようとしますが、この時に明治維新の立役者である木戸孝允は、「決して今日の人、米欧諸州の人と異なることなし。ただ、学不学にあるのみ」ということに気が付きます。
つまり「アメリカ人もヨーロッパ人も、私たちと同じ人間であり、日本人と差異があるわけではない。要は教育の問題なのだ。我々の教育水準がまだ不十分なのだ」という結論に達します。
明治政府は、「まずは人間的発展を実現することが豊かな社会を作り出す」という明確なビジョンの下に、「基礎教育の充実」「公衆衛生」「医療体制」を中心に国造りを行います。
しかし、これは当時としてはコペルニクス的転回でした。何故なら、西洋では、社会が充実して初めて人間形成が行われるというのが常識だったからです。
教育と医療を両軸として、全ての人に基礎教育を施し、それを踏み台として高度な仕事を多くの人ができるようになり、世界的に競争力のある製品を作れるようになりました。また全ての人に医療(公共衛生)を提供することにより、高い技術を有する者が安定した環境で働き続けることができるため、これらが、正のサイクルとなり回り続け国力が高まってきました。
こうした明確なビジョンにより、日本は、数十年でロシア、中国、アメリカ、イギリス等の国々と互角に争うことができるまで力をつけてきました。
1929年10月24日、アメリカの株価は大暴落し、これが全世界に波及して世界大恐慌が発生。これにより世界は、ブロック経済に移行し、ドイツでは、賠償金が払えなくなり大不況となり、ナチスなどのファシズムが台頭。不況を乗り切るために、他国へ侵略します。
一方、日本でも、世界大恐慌は、最悪のタイミングで訪れます。かくして、日本は、もはや自国だけで景気を回復するのは不可能という結論にいたります。そして、日本は、広大な土地を持つ満洲(中国東北部一帯)を占領・開拓して景気を回復させようと考えました。こうして日本は、第二次世界大戦という破滅に突き進んでしまいます。
この戦争が日本にもたらしたものは、日本の有数の工業地帯及び東京などの大都市が、すべて焼け野原となり、国力はゼロの状態となり日本という国の存在自体が脅かされる状態、つまり、最貧国への道でした。
でもと、セン教授は、言います。
日本は、再び、「基礎教育」「公共衛生」を中心に国を立て直したと、これは明治維新のレガシーと日本人であるというプライド(統合の象徴としての天皇の存在)、そして愚直なまでの日本人の責任感が、明確なビジョンを更に強固なものとし貧困から抜け出すことができたと、セン教授は、説明します。
つまり、日本の存在そのものが、アジアやアフリカの資源がなく貧困から抜け出せない国の希望となっているとセン教授は、力説します。
日本の戦後復興
セン教授の「貧困からの脱出」の為のモデルとしたのが、日本の戦後復興でした。
日本は、第二次世界大戦で持ちうる全ての資産を失います。工業製品を作る施設、電力施設、そして工業製品を流通させるための輸送網。
そして、日本の国土は、山と海に挟まれた狭い平地しかなく、日本で生産される農作物だけでは、国民全体を支えることさえも不可能でした。
当然、この様な状態では、自国のみで戦後復興を行うことは、不可能でした。
第2次世界大戦の終結当時、米国は世界で最も大きな援助供与能力を有していました。
米国は占領地域に対して、ガリオア(占領地域救済政府基金: Government Appropriation for Relief in Occupied Area Fund)、エロア(占領地域経済復興基金: Economic Rehabilitation in Occupied Area Fund)という2つの基金を持っており、日本は、これらの基金から救済・復興支援を受けます。
この二つの基金により日本が融資を受けた額が、総額18億ドル(現在価値で約12兆円相当、内13億ドルは無償)です。
実は、アメリカの戦後復興支援の中心は、ヨーロッパであり日本へは殆ど支援が行われていない状態でした。しかし、最終的にこれほどの援助を得ることになったのは、実は、実質的に戦後日本を占領していたGHQそしてその最高権力者であったマッカーサーと昭和天皇との会談が、一つの大きなきっかけとなります。(この話は、主題と直接関係ないので、機会があれば書きたいと思います。)
日本の戦後復興において、最も不足していたのが、食料でした。
食料支援もやはりヨーロッパが中心であり、日本では月に数十人の餓死者がでるような悲惨な食料事情でした。
いうならば、今日のアフリカの最貧国等で見るような飢餓状態は、80年前の日本そのものでした。
その日本を救ったのが、「ララ物資」でした。ララ物資とは、ララ(英語: LARA; Licensed Agencies for Relief in Asia:アジア救援公認団体またはアジア救済連盟)が提供していた日本向けの援助物資を指します。
このララ物資の約20%は、アメリカの日系人。残りはアメリカ及びカナダの知日派のキリスト団体により行われていました。
支援物資は、1946年(昭和21年)11月から1952年(昭和27年)6月までに行われ、重量にして3300万ポンド余の物資と、乳牛や2000頭を越える山羊などもあり、全体の割合は食糧75.3%、衣料19.7%、医薬品0.5%、その他4.4%であり、支援物資を受け取ったのは、約1400万人。当時の日本の総人口の約15%、つまり6人に1人がこの支援物資を受け取った計算になります。
下の動画は、15分という長い動画ですが、ララの精神を余すことなく説明しています。今の日本がなすべきことのヒントとなる部分が多く含まれていますので、視聴していただきたいと思っています。
日本は、こうしたアメリカを中心とした支援の殆どを、明治維新で日本政府が掲げたビジョンである「基礎教育」「公衆医療」を重点とした人的資本の充実を再び掲げ、国の再建のために注ぎ込みます。
これらの海外からの支援をもらいながら、日本は人道主義という明確なビジョンにより国の復興に邁進します。
そして、1962年にオリンピックを開催し、世界に向けて復興の狼煙を上げます。その後は、高度経済成長を果たし、最終的には世界に冠たる経済大国へと成長していきます。
これら、日本が採用した人道方式による復興方法は、実は、世界では稀な方法であり、前にも書いたように、西洋の復興方法は、インフラの整備が先にくる方式、つまり、インフラが整備されて初めて人的な支援が行われます。この人的な支援が行われるまでは、個人の責任で行うものであり、政府は関与すべきでないという、ある意味クールな対応をしています。
しかし、西洋の復興方式では、どうしても不平等が生じてしまいます。そして、そこに差別が生まれ、取り残される人が存在することとなります。
当時、貧しい国であったインド出身のセン教授にとって、西洋方式の誰かを犠牲にして国を立て直すことが、どうしても受け入れることができませんでした。
このため、すべての人に等しく教育と医療を施し、全体のレベルを上げて国を復興するスタイル。つまり、「誰も取り残さない」といった日本モデルが、今、貧困にあえぐ国々にとって最適なアプローチであると訴えます。
日本の世界への貢献
1946年12月11日、国連児童基金(UNICEF)は第二次世界大戦の影響を受けた子どもたちに人道支援を届けるために誕生します。
日本とUNICEFの関係が始まったのは1949年。戦後間もない日本で、食べるものや衣類が十分になかった子どもたちのために、学校給食を通じて脱脂粉乳の配布を開始しました。また、赤ちゃんや母親の栄養を改善するための支援や、医療器材や毛布、医薬品などの支援物資の配布されます。
推定150万人の子どもたちが脱脂粉乳の支援を受け、日本全国からUNICEFにお礼の手紙が届くようになりました。そして、子どもたちから「自分たちも恩返しがしたい」という声があがり、1955年、全国の学校で「ユニセフ10円募金」が始まりました。
この「ユニセフ10円募金」は、大きなうねりとなり、現在の「ユニセフ募金」へと繋がり、その後も世代を超えて受け継がれ、日本の民間による支援は、過去20年近くにわたって世界トップレベルの規模となっています。
しかし、日本の貧しい国への支援は、最初は、このユニセフの例のように、成功していたわけではありません。
当初、日本の海外への支援は、今日のアメリカや中国のように、その国にプレゼンスを示せるように、立派な建物や高速道路そして高速鉄道などハード面の支援が主でした。
しかし、多額の資金を投与して支援のために作られた建物や機械が、翌年には、手入れされずに野放しとなっていることに愕然とします。
日本は、この事実を反省し、支援をハード面よりもソフト面で行うことにします。つまり、日本モデルによるアプローチを開始します。
この発想に基づいて作られたのが、独立行政法人国際協力機構(Japan International Cooperation Agency、略称: JICA/ジャイカ)です。
JICA/ジャイカによる支援は、「顔の見える」支援であり、アメリカや中国の様に、華々しい支援ではありませんが、人と人が直に交流して現地の人々が自立して行える事業を展開しています。
人と人の交流による支援は、理想や綺麗事だけでは出来ないものです。
実際に、私も、幸運なことに7ヶ月間アフリカで国連の一員として働く機会がありましたが、日本からの支援員が、現地のあまりの悲惨さに愕然として、人がいないところで号泣している場面を何度も見てきました。
また、海外での人道援助を行っている人達に、直接、バッシングが行われる場合があります。
例えば、2004年4月のイラクでの日本人誘拐事件では、合計3人が誘拐されますが、日本政府の働きかけにより、3人は開放されます。
しかし、3人が、帰国後に「自己責任」を問われています。これは、本質を捉えていない議論であったと思います。
これらの困難を乗り越えて、日本は、日本モデルのアプローチにより海外の貧しい国への支援を続けています。
これら、日本の人道的な行動を、セン教授は、熟知しており、だからこそ、講義で「日本があったから世界は救われていた」と発言しているのです。
最近、非常に心配なニュースが流れてきました。
ガザ地区の保健当局は、発症すると手足にまひが残ることもあるポリオの感染例が25年ぶりに確認されたと発表。国連のグテーレス事務総長は、流行を防ぐために8月末にもガザ地区で大規模なワクチン接種を始める計画を明らかにするとともに、実現には戦闘の停止が必要だと訴えています。
WHOによりますと、ワクチンの接種は8月と9月の2段階に分けて行う計画で、それぞれ7日間、戦闘を一時停止することが必要だとしています。
ただ戦闘の停止が実現する見通しは立っておらず、計画が実行に移せるか不透明な情勢です。
一人でも多くの人にポリオワクチンが届くことを願っています。
わずか20円で、一人の人にポリオワクチンを接種することができます。募金方法は、現金、ペットボトルキャップなど各種あります。
もし、これに賛同していただける人が居れば、ユニセフ募金に参加をお願いします。
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