言葉に溺れそうになる夜
情報社会と呼ばれる今を生きていると、日々色々な言葉や考えに出会う。
私は様々なSNSをやっているし、人様のnoteやブログも拝見するし、たまには本を読むので、
毎日、無数の言葉に目を通している。
もちろん、文字だけでは無い。音声や映像での情報もあるし、生活の中で出会う人たちの言葉も私の心には沢山積み重なっている。
その中には、自分の事のように共感できるものあるし、反対に、自分とはここまでかけ離れた考えをする人もいるのか、と不安にさせられる言葉もある。
自分の考えを表現する手段としての言葉は、明確かつ正直であるものだと私は考えている。
だから、自分の前に溢れる言葉を全て拾い集めようとすると、たまに世界や人と自分のつながりがわからなくなってしまう。
ある人の言葉にはすごく共感できるけど、私とその人では境遇が違いすぎるのに、何故似た考えを持つのだろう。
ある人の言っていることは全く理解できないし、共感できない。何故そんな考え方ができるのだろう。
こんなことを考え始めてしまう。
もちろん人は1人として同じでないのだから、考えも違ってくるはずだ。
しかし、あまりに多く「自分以外の人」の言葉が自分に入り込んできてしまうと、
自分に対する「その他」の数が多すぎて、それを理解できないとあまりにも自分が孤立した存在に思えてきてしまうのだ。
言葉は遠慮しない。そのまま自分に入ってくる。だからこそ取捨選択できない。
そんな中で、どんな言葉が正しいかを決めるべきではない。
私は、もはや、人の言葉を間違っていると断罪することは出来ない。
どれだけ倫理観に欠けた考えだとしても、その人がそう考えるには理由があるからだ。
自分が自分の考えに根拠を感じているように。
それが、言葉にできないとしても、どこかに理由があるはずだ。
言葉に至るまでの経緯に私は判断を下せない。
もしかすると人の言葉を否定しないという考えはかなり諦観的といえるかもしれないが、
そうだとしても、現段階では私が思いついた自分を守る方法はそれしかないのだから仕方がない。
私も早く、自分だけの言葉を持てるようになりたいと思う。
そうすれば、今のように人の言葉に溺れなくて済むようになるのだろうか。