「松の木の物語 ~(その5)老い松伐採の日」
短大主催の供養祭は、1月22日という、かなり早い時期に開催されている。
短大側には、老木を地域の象徴木としてではなく、付属幼稚園の敷地内にあった“園児たちに親しまれたヤマンバの木”としてのイメージを打ち出したいという意図があり、住民その他、短大外部の意図で騒ぎが大きくなることを好ましく思っていなかった。
今では付属幼稚園の敷地となっている場所なのだから、それも当然のことと言えた。
電話連絡を受けて供養祭に参加した村山さんは、当然来ているだろうと思っていた前班長や長老など、主だった人たちのほとんどの顔が見えないのを意外に思った。
その後分かったことだが、短大から電話連絡を受けた住民は、わずか4~5人だった。
村山さんが当初考えた、住民の心の反映として供養祭を行い、切り株を残したいという願いは、このように、なかなか実現する兆しが見えてこなかった。
老木伐採の日は6月3日に決定した。
伐採の1週間前、フォークシンガーの黒坂正文さんから、1枚の楽譜が届いた。
「風になれヤマンバの木」
ヤマンバの松の木よ 風になれ
風になって トンボたちを
守っておくれ
ヤマンバの松の木よ 空になれ
空になって つくしたちを
育てておくれ
ヤマンバの松の木よ 雲になれ
雲になって 僕たちを
見ていておくれ
ヤマンバの松の木よ 星になれ
星になって この地球
守っておくれ
村山さんは、その楽譜を付属幼稚園に持ち寄り、伐採の日に園児たちが歌うことを提案し、承諾された。
そして、伐採の日がやってきた。
短大側は、お別れ会の規模が大きく膨れ上がることを望んではいなかったようだが、塩田文化財研究所の黒坂周平氏の助力などにより、下之郷の自治会長、教育委員会、農林課など各方面に情報が行き渡り、当日は、マスコミ関係者を含む200人が集まった。
全住民を代表して、最長老の小林あやみさんにより玉串が奉奠された。
斧入れの儀式が行われた後、黒坂氏と園児たちが、声を合わせて『風になれヤマンバの木』を歌った。
園児たちの無邪気な歌声は、あたりに響きわたり、木を見上げる姿と相俟って、聞いている人たちの胸に染み入った。
そして、黒坂氏のギター弾き語りにより、出来上がったばかりの『ヤマンバの切りかぶの歌』が披露された。
黒坂氏によると、その新曲は、村山さんの気持ちになって、彼に語りかける歌として作曲した歌だった。
チェーンソーがうなりをあげ、集まった全員が見守る中で、老木はメリメリと音をたてて倒れ、土煙があがった。
松特有の香りが強くあたりに漂い、それまで賑やかだった蝉の声が、それを境にピタリとやんだ。
「悲しくて涙が出ます。この村の象徴でしたからね」
長老がつぶやいた。