体験小説「チロル会音楽部 ~ ロック青春記」第7話*鮫島君とレッド・ツェッペリン
前章で小学校での相撲大会にまつわる話等いくつかのエピソードを紹介させてもらったが、僕はこれらの中に、いかにも鮫島君らしい人懐っこさを感じている。これは、一種の才能とも言えるかも知れない。中学・高校時代を通じて、よく行動を共にしたわけだが、どこに言っても知り合いのような雰囲気で、レコード屋の店員のお姉さんなどから、当然のようにいろんな情報を仕入れていた。
鮫島君がバンドに合流したころ、もう「チロル会音楽部」の名称は使われなくなっていた。
では、どんな名前が使われていたかというと、五十音表の「サ行」から上3つを取って「サーシース」。チロル会結成時からの冗談を好む伝統はしっかりと守られていたが、この名称変更は、「アンサンブルを楽しむ集い」から「バンド」という意識の変化を反映したものだった。
相変わらず「駅馬車」やタイガース、ベンチャーズなどの曲を演奏していたし、実際初めて合わせた曲も、まずは簡単な曲から、というわけで「駅馬車」だったが、それでも意識だけは変化してきていて、それらの曲を練習することを、ロックを演奏するまでの練習段階として捉えるようにはなっていた。
メンバー探しが日々の課題になっていたと既に書いたとおり、セカンド・ギタリストやドラマー、ロックを歌えるヴォーカリストなど、ロックを演奏するために不可欠なメンバーが、身近に出現していなかったという現状も「まだロックはできない」という意識に直結していた。
鮫島君にとって末原君との出会いは、生涯を通じても大きな出来事だったらしく、散々迷った挙句「ギターではこいつに適わない」と判断し、以後ベースに転向し、ひたすらベーシストとしての腕を磨くことになる。
彼の出現には、単に「ベーシストが見つかった」という以上の意味があったことは確かで、そのころから、ロックに対する仲間うちでの空気が一段と熱っぽいものになっていった。
レッド・ツェッペリンのデビュー時期と重なっていたということも大きいかもかも知れない。セカンド・アルバムからカットされたシングル『胸いっぱいの愛を』を貸してくれたのは、僕にとってちょっとした事件だった。
チロル会音楽部に参加したとき、それは、器楽合奏部、ひいては学校生活へのアンチテーゼとして、自分にとって欠かせないものとして機能していた。少人数で、自分たちで楽譜を作って、自分たちの手で具体化してゆく過程の面白さは、ピアノのレッスンや、器楽合奏部からは得られないもので、最初のうちは、演奏する音楽は何でも良かった。
自分たちの手でアンサンブルを楽しんでいるうちに、末原君からあれやこれやとロックの情報が入り、次第に耳も馴染んでいたが、何となくまだ距離感があり、それらを“ギター小僧”末原君の背後に感じていた。そんな状態からまた一歩進んで、すっぽりとめりこむ切っ掛けになったのが、レッド・ツェッペリンであり、それを教えてくれた鮫島君だった。
彼が、ラジオから流れて来るツェッペリンのヒット曲『胸いっぱいの愛を』を初めて聴いた時、あまりにもショックが大きく、次の日は学校に行く気が全くせず、休んでしまったという。シングルレコードを入手し、以後、ありとあらゆる知り合いに推しまくる。
彼から紹介されなかったとしても、いずれは好んで聴くようになっていただろうと思う。だが、そういった経緯があったことから、今でも、クリームを聴けば末原君を思い出すように、アルバム『レッド・ツェッペリンⅡ』を聴くと、鮫島君を思い出す。
初めて聴いたときは、実はその良さが分からなかった。そのひとつの原因は、自宅にあった再生装置があまりにもショボかったことにもあったと思う。薄っぺらい電蓄しかなくて、トランジスタ・ラジオ並の音で聴いていたのだから、本来の迫力が伝わらないのも当然だった。
ところで、今使った電蓄という言葉、果たして、どの世代まで解るだろう? 若い人が見ると、蓄電池のことだと思うのではないだろうか?
そんな状況を見るに見兼ねてか、鮫島君が小型のステレオ(今でいうミニコンポぐらいのサイズ)を貸してくれたことがある。何が切っかけで、なぜそうしてくれたのか、具体的には思い出せないが、僕がなかなかツェッペリンの迫力に気付かないことが、よほどじれったかったのかも知れない。
自転車の荷台に括り付けて、それを片手で抑え、バランスを取りながらの運搬は、けっこうしんどかった。家にたどり着く頃には、かなり疲れてしまったが、いそいそと電源プラグをコンセントに差し込み、音が聞こえてきた時の嬉しさは格別だった!
ロバート・プラントのスーパー・ハイ・トーン・ヴォーカルも、最初に聴いたときにはただのダミ声にしか聞こえなかった。末原君も、「はじめは変な声だと思った」と言っていた。ビートルズやストーンズ、クリームのジャック・ブルースあたりと比べても、目一杯シャウトするスタイルは、当時かなり独特なものに聞こえた。
ところが、その後、『胸いっぱいの愛を』が最高の音楽として胸に響くようになる。感情の炸裂こそが最高の音楽表現であると、本気で思うようになっていた。
また彼らの容姿も美しく、大いに憧れた。波打つブロンドと堀の深いギリシャ神話の登場人物のようなロバート・プラント。いかにも繊細そうな細身の体付きに長い黒髪、神秘的な眼差しのジミー・ペイジ。それぞれ、男性の一つの理想像に見え、それに比べて、周りの大人たちが何と萎びて見えたことか・・・。
僕らが中学2年生だった1969年という年、ビートルズが解散し、ウッドストック音楽祭が開催されている。レッド・ツェッペリンがレコード・デビューした他、ジャニス・ジョプリンがイギリスでライブデビュー。ブラインド・フェイス、シカゴ、ニール・ヤング、CSN&Y、イエス、キング・クリムゾン、サンタナらが、デビュー・アルバムを発表している。
その後、次々と現われるロック・ヒーローたちが創り出す、革新的な迫力あるサウンドに、心はすっかりヒートアップし、充実した毎日を送ることになる。それは思わぬ相乗効果を生み出し、学校の成績まで、ホップ・ステップ・ジャンプと、飛躍的に転げ落ちていった。自分にとって、それがさほど価値のあるものだとは思えなくなっていた。
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