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「祈り ~ 妹へ」
平成20年 10月20日 月曜日
「気力が出ないねぇ・・・」
キッチンにいた76歳の母が、力なくそう言った。
その気持ちは、僕にもよく分かる。
というか、
全く同じ状態なのだ。
「そういうもんだよ」
そのときは、そうとだけ答えて、その場を離れた。
翌日も、母は、同じことを言った。
「気力が出ないねぇ・・・」
「僕があまり言うと良くないと思って、言わなかったけれど…」
そこで、少し言葉に詰まった。
「なんて言ったらいいかな・・、いつも・・・、胸が重いよ」
母は言った。
「そうだよねぇ。いつも頭から離れなくて・・・」
「なんか、ほんとに気力がわかないよね。それが正直なところだよ」
長野県の佐久総合病院に妹が入院している。
扁平上皮ガン。
先週の月曜日に主治医の先生から電話で聞いた話では、「長くてあと1ヶ月。この1~2週間で病状の急転があるかも知れない」とのことだった。
母が搾り出すような声でこう言った。
「あの子は、いい子だよ。付き合い上手で、すぐに友達ができるんだよ。友達想いでね・・・、中学生のときにね、不登校の同級生に毎日電話して励ましていたんだよ」
妹とは5歳離れている。僕が19歳で鹿児島を離れたとき、まだ中学2年生だったわけで、どんな友達付き合いをしていたかなどは、当時はほとんど知らなかった。
末っ子だったので、僕の目からは「我侭な甘えん坊」にしか見えていなかったが、家庭の外ではそうではなかったらしい。大学時代の後輩の男子学生などにとっては「頼れる姐御肌」。下級生の男の子たちから「まい姉」と呼ばれ、よく相談にのったりしていたという。
高校・大学時代を通じて、演劇やバンド活動など、積極的に活動し、大阪の大学を卒業してからは、マスコミ関係の仕事をするためにセスナのライセンスを取得した。
そんなことを知ったのは、その後、本人およびその周囲にいた人たちの口を通してである。
病気が発覚し、余命宣告されてからも、妹自身は超然としているように見えた。こちらからの電話に出たとき、さらりとした口調でこう言ってのけた。
「こういう状況って、本人より周りのほうが辛いんだろうね。余命半年っていうのは、治療せずにいたらっていうことだよ。今受けている治療が合っているみたいで、私元気だよ。まあ、延命治療だけどね。お兄さんは考えすぎるからいかん。今出来ることをするだけだよ」
あっけらかんと言い放たれた言葉に、逆にこちらが救われる思いだった。
その日から半年が過ぎた。
10月31日 金曜日
埼玉県在住の従弟の家に来ている。
昨日夜、JAL鹿児島⇒羽田経由で、こちらに到着。
東に向かって地球の自転を追い越し、鹿児島より一足早い夜の中へと機体は潜り込み、轟音を撒き散らしながら飛行し、そして羽田へと降り立った。
16年振りの東京は、空気が粘っこく、モノレールの車窓に迫る巨大なビル群が息苦しい。
浜松町駅。プラットホームから下行階段に向かって、まるで砂時計の砂粒のように吸い込まれる人の群れ。そのノロノロとした移動に紛れるのも久しぶりだったが、そこに懐かしさを感じるほど、心に弾力があるはずもない。
本日、入院中の妹を見舞うため、従弟の奥方の運転で、長野県佐久総合病院に向かう予定。
従弟夫妻には大変世話になることとなり、感謝&感謝。
11月1日 土曜日
― まずは見舞って、その後の予定は、妹の様子を見てから決めよう ―
そう考えていたので、航空券は往路のみの予約。
ベッドに横たわる妹は、想像以上に痩せていた。
鎮痛剤が効いているので、朦朧とした意識の中で、意思伝達のために言葉を捜すのに苦労している様子だった。
妹のために、何ができるのか・・・。
よく分からないが、できるだけそばにいたい。
ただ、そう思った。
心がいたずらに揺れ動いてなかなか考えがまとまらない。埼玉から一緒に来てくれた従弟の細君が、親身になってあれこれと考えてくれたのがありがたかった。
①病院に通える位置にあること。
②長期滞在が可能なこと。
以上二つの条件を満たす「どこか」を探すために、方々に連絡を試みるものの、思うように連絡が付かない。
そんな中で、唯一連絡の付いた上田在住の友人が助け舟を出してくれた。
とりあえず上田市に滞在できる。
11月3日 月曜日
衰弱が進み、言葉を発することが困難になっている。言葉を捜すのに苦労し、そして発音が曖昧になり、聞き取る側も耳をそばだて、注意深く聞かなければならない。
初めて見舞った日は、健康時の姿との違いに驚き動揺してしまったが、2日目は、今の状況を受け入れた上で、普通に接することができた。
眠ったように見えても、音は聞こえているので、話しかけたり手に触れたりしてくださいとの説明があったが、5年も離れていたので、話すべきことが多くは見つからず、歌を歌うことにした。
3日目だった2日の日曜日、難しくない何気ない話題が無いものかと探した。
「貴美子の指は僕の指より長いなぁ。僕の指は、お母さんにそっくりで、太くて短いんよ。『全部親指、ほら!』って、手を出すと、大抵の人は笑ってくれるよ」
すると、妹はこう言った。
「テレビでねぇ・・・。親指を・・・、象にしてたよ」
聞き取る僕の勘が鈍いので、これだけ言うのにも、たどたどしい口調で何度も同じ単語を繰り返し、時間をかけることになる。 何度も聞き取りを間違うと、妹は怒った顔をする。
「親指を象の形にするって、どうやるんだろう? 人差し指を象の鼻に見立てて、親指で口の動きを真似るっていうのは、子供のころ僕もやってたけど、ほら、こういうやつね。でも、親指を象にするって、どうやるんかなぁ。こうするんかなぁ・・・。これじゃ象に見えないよねぇ。わからんなぁ・・・。
ところで、最近ギターは弾いてたの?」
妹は首を小さく横に振った。
「大阪に住んでたころ、弾き語りを聞かせてくれたことあったよね。リズム感良いなって思ったよ。僕の指は、太くて短いから、ギターには不向きでね。弦を1本押さえようとして2本になったり届かなかったりね。知ってるかな? 中学時代一緒にバンドやってた末原君って、ギター上手くてね。プロとして、今も活躍してるんだよ」
大河ドラマ『篤姫』を見ているかと問いかけると、首を縦に振った。複雑な会話は無理なので、『篤姫』についてはそれだけだったが、同じドラマを同じ時間に見ていたことがわかって嬉しかった。
そして初めて、一緒に『篤姫』を見た。
と言っても、その時妹は、目を閉じている状態だったので見てはいないが、「音は聞こえていますので」ということだったので、一緒に見ているという感覚で見ていた。落命のシーン2箇所は、イヤフォン・ジャックを差し込んで・・・。
*** ***
前日まで、どうにか自分で水差しを持って水を飲めていたのに、この日は、手を添えてやらないと、自分の力だけでは持てなくなっていた。体力が衰えたのがわかる。看護師さんから、明日あたり、子供たちも連絡があったらすぐに病院に来れる態勢にしてほしいと言われた。
*** ***
病室に着いた時、妹は目を閉じていた。いつもはベッド・サイドにおいてある小さなテーブルが、壁際に移してあった。自分で物を取る力が無くなっているのだから、傍に置いてあっても用を成さない。
「来たよ!」
そう呼びかけると、いつもは少し目を開け、言葉にならない小さな声で応えていたのだが、今日は反応が無かった。
もう目を開けてくれないのだろうか、それとも眠っているのだろうか・・・。
テレビを点けたり、歌を歌ったりしているうちに、目が開いた。
何か言いた気に唇を動かしている。だが、声は出ない。
何を言おうとしているのかは分からないが、何かを言おうとしていることは分かる。側に誰かがいることを感じ取っている証拠だ。言葉にならなくとも、ある種のコミュニケーションが成立していると言えるのではないか。
午後2時ごろ、かつて妹と同じ職場でチームを組んでいた女性が2人で見舞いに来てくださった。
前々日以来、2度目の訪問。1人は、上司だった方。もう1人は同僚だろうか。
生命保険の外交さんなので、とにかく明るくて、矢継ぎ早に色々と声を投げかける。
「来たよ~! 気分どう? 痛くない? 大丈夫?」
そうすると妹は少し目を開け、小さく頷いた。
「お水飲む?」
首がわずかに上下に動いた。
水差しで、ほんの少しずつ数回口に含ませてもらっていた。
仕事仲間だからこその、楽しかった共有体験が話題に上る。
「すっぽん食べに行こうね! またカラオケ行こうね。」
あのときはこうだった。こんなところがあった。誰かが妹について○○と言っていた・・・、等々。
そんな言葉から、これまで知りえなかった妹の様子が伝わってくる。
「鹿児島に帰りたがってましたよ。退院したら真っ先に鹿児島に行きたいって・・・。前に入院したときは、もっと短かったから、今度もまたすぐ退院できると思ってたんです。そしたら、こんなに長くなっちゃって・・・」
これは聞いていて辛かった。10月には、子供と一緒に帰省する予定になっていた。こういう部分に余り浸り過ぎると、たまらなくなるので、明日のことを考えるとしよう。
11月4日 火曜日
「ご家族の方は、電話連絡があった場合、いつでも病院に来れるようにしておいてください」
看護師さんからそう言われたのは、2日日曜日のこと。
それから2日後の4日火曜日午後4時頃、「そのとき」が来た。
看護師さんから電話連絡を取って欲しいとの申し出。
「子供さんたちは、上田から来るんですよね。今だったら、まだお話できるかもしれないので、少しでも早いほうが良いかと思います」
まず長男の携帯にアクセス。留守電設定。焦る気持ちを抑え、メッセージを録音。
長女の携帯は、コール音が延々と続くのみ。数回試みるも、状態は変わらず。
前日3日にお見舞いに見えた妹の知り合いも、いざというときの連絡を望んでいたので、電話させてもらった。
最初に病室に到着したのは長女だった。長男から連絡が入ったのかと問うと、「私から電話しました」という返事。ベッド・サイドに寄り添い、じっと母親の顔を見ている。
2人だけにしておくために、一旦部屋を出て廊下で待っていると、長男が速い足取りでやってきた。
「おう、着いたか」
「はい」
息を弾ませたまま、慌てるようにベッド・サイドへ。
「痩せたね。いつ、こうなったかや」
兄妹2人、これまでの経過を振り返っての会話が続く。
その後、知り合いの方が2人入ってきた。そのうちの1人は、世話になっているという話を聞いており、ぜひお会いしたいと思っていた方だ。
情け深い方で、妹の姿を見るなり、見る見る表情が変わり、嗚咽が始まった。肩を支えて一旦廊に出た。
「あたし、駄目なの。いつもどうしても泣いちゃうんです」
妹との関わりの深さや思いが伝わってくる。まずは、お初の挨拶、自己紹介、そしてお世話になっているお礼を済ませ、あれやこれやと言葉を交わしているうちに、やがて平常心に戻った。
「もう大丈夫です」
その後、末っ子の次女も到着。
妹は、目と首の動き、そしてときおり発する声で反応する。
そのたびに、周囲に言葉があふれる。
「笑ってるよ」
「肌がきれいだねぇ」
「ママの肌、ほんとにきれいだよね」
「あらぁ、○○ちゃんと△△ちゃんだって、ゆで卵みたいにつるつるじゃないの」
「いや、ママのほうがずっときれい」
「こんなにいい子供たちがいて、羨ましいよ」
「やっぱり、子供は3人だねぇ」
「心配して飛んできたけど、大丈夫だねぇ」
妹が、これまでにどんな人間関係を築いてきたのか、そして子供とどう向き合ってきたのかが垣間見れる。
一大事だと思って慌ててきたけど、大丈夫そうで良かった。
お互いの気づかいのもと、そんな空気が漂っていた。
部屋から出て、廊下に立っていると、病院で初めて会ってから3回目の方が出てきてそっと洩らした。
「これは、ずいぶん悪いと思う。だって昨日と比べても・・・。どうですか? 毎日見てらっしゃるから、よくお分かりになるでしょう?」
声が震えている。
「そうですね。1日1日、状態が変わっていきます。できることが、だんだん少なくなってきてますね。今日は、コミュニケーションがぎりぎり可能な状態だということで、家族を呼んでくださいと・・・」
「そうだと思う」
その後、この様子を、埼玉の従弟と、鹿児島の実家に電話で報告。
「貴美子の人柄っていうもんだと思うよ」
「そうだよ。ほんとにそうだよ。貴美子だからそういう人たちが集まるんだよ」
この夜から、病院のベッドを借りて、病室に泊まることにした。
11月5日 水曜日
早朝、佐久平のネットカフェで、銀行振り込みなどの諸雑事をすませ、佐久平で約1時間半の電車待ちをしたあと、病室に戻ったときには11時近くになっていた。
「おはよう!」
この日の第一声に、妹は応えず、静かに息をしていた。
― 今日は目を開けてくれるだろうか、呼びかけには視線で応えてくれるだろうか・・・ ―
妹に対すると、まずはそんな思いが働く。
昨日まで荒れていた唇に光沢があった。その場にいなかったので分からないが、看護師さんがリップクリームか何かを塗ってくれたらしい。口を閉じ続けているだけの力がなくなり、2日前ごろから、唇やその周辺が乾燥し荒れていたので、ガーゼに水を含み、繰り返し湿らせるようにしていた。そのたびに、気持ち良さそうな顔をしていたのだが、またすぐ乾燥してしまう。そんなことの繰り返しだった。
その日の午後、唇に薬を塗ってくれた看護師さんが、歯科で入手できる保水効果のある塗り薬のことを教えてくれた。唇だけでなく口内全体に塗れる薬。唇の乾燥については、少し前から気付いていたので、自分だけで対処せず、もっと早く、こちらから看護師さんに相談していれば良かった・・・、と今更ながら思った。
病院で働く看護師さんたちは、役割別に組まれているいくつかのチームに属している。
この日の午前、「痛み」に対するケアを行う看護師さんが、足のマッサージを行ってくれた。血圧を測ったり体の向きを変えたりといった通常業務に比べて長い時間を要したので、その分多くの言葉を交わすことができた。
妹の幼少時から、高校時代、大阪での青春時代、三重で結婚して、その後長野県上田市で暮らすようになった経緯など。
看護師さんのほうからは、入院後、はじめて対面したときの様子などを話してくれた。
「はじめてお会いしたとき、髪の毛が長くて、きれいな人だなって思いました」
「妹は昔からいつも髪の毛を長くしてましたね。けっして美人っていうタイプじゃないけど、なんていうかな・・・、愛嬌の感じられる、兄である僕が言うのは、ちょっと照れるんだけど、人に好かれる魅力があるっていうかね・・・」
「そうですよね。そう思いました。私は人とはじめて会う時には少し緊張してしまうんですけど、その緊張を笑顔でふわっと包んでくださって、こちらも全然緊張せずにすみました。」
そのときの妹の様子が、なんとなく目に浮かんだ。自分だけでは知り得ない情報が入ってくると、それだけで嬉しくなる。
「やさしい人ですよね」
そんな話をしながら、ずっと妹の姿を見ていたのだが、それまで静かにしているだけだった妹の表情に動きが見られた。目を開けたり瞬いたり、顔を少しだけ左右に動かしたり・・・、そんな動きが、こちらのお喋りに反応しているように思えた。
「聞こえてるみたいですね。」
「そうですね。聞いてますね。」
見舞ってくれた知り合いの方も言っていたことだが、入院後、鹿児島に帰りたいと繰り返し言っていたという。いつ退院できるだろうか、退院したら真っ先に鹿児島に行きたいと・・・。
実際、10月の3連休を使って帰省の予定を立てていた。その矢先の再入院だったので、尚更その思いは強かったと思う。
鹿児島から入院先の妹を案じ、電話で話していたころ、こんなことを言っていたことを思い出す。
「病室の窓から、ちょうど正面に浅間山がきれいに見えるんだよ。見ていると桜島を思い出すよ。」
今、その場所に来ていて、妹が話していたその景色を、同じ窓辺から何度となく眺めている。ゆったりとした浅間山の稜線を見ながら、その電話のこ とを思い出している。
11月7日 金曜日
午前6時46分。
3人の子供たちが見守る中、妹は静かに息を引き取った。
享年48歳。
数日後、上田市の葬祭場で告別式が執り行われた。
遺族代表としてマイクの前に立った甥っ子が、挨拶の言葉のあと、母から預かったメッセージがあるからと、手にした数枚のメモを読み始めた。
そこには子供たちの友一人一人へのメッセージが記されていて、甥っ子の声に耳を傾けているうちに、まるで亡くなった本人が、天国から話しかけているかのような錯覚に陥った。
親し気に語り掛けてくるような文面で、友人として我が子と親しくしてくれたことへのお礼から始まり、各人の性格や癖をよく捉えたうえでの一言アドバイスなども含まれており、私は驚きを禁じえなかった。
― 死を見据えた上で、こうまで周囲を気遣えるものなのか・・・ ―
甥っ子がメッセージの数々を読み終えたとき、会場にしばしの沈黙が訪れた。その沈黙の中で、あふれ出る涙を、周囲に気付かれないようにそっとぬぐった。
ある知り合いの方が、こんなふうに言っていた。
「損得無しで動く人でした。常に周りの事を考えて、人のために一生懸命になって働いていました」
初めて会った瞬間から、まるで以前から友達だったかのように付き合える人だったということも複数の人から聞いた。
入院中、体力が衰える前は、小指の先ほどの可愛い折鶴を、ピンセットを使って器用に折り、千羽を目標にしていたという。看護士の方や主治医の先生から聞いた話である。
「私も折らせていただきました。強い人ですねぇ・・・」
無念さや悲しさを一切口にせず、遺される子供たちのことを考えていた。 「くよくよしててもしょうがないんだよ」と励まし、我が身亡き後の3人の子供たちの生活について、具体案を提示して長男に託し、そして力尽き、命を終えた。
妹ではありますが、あなたは尊敬に値する人でした。
苦労多き人生でしたが、今やすらかにお眠りください。
ありがとう
兄より
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