![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/115437196/rectangle_large_type_2_efa15ac2886d6473cc146d89daca97ab.jpeg?width=1200)
「マジシャン めどう*自己紹介」
メンタルマジシャンです。
あなたの心に語りかけます。
「めどう」っていう名は、いわゆる芸名なんだけど、
マジシャンとして活動するとき以外でも、
通名として使ってるよ。
リアル空間で自己紹介するときは、こんなふうに言ってる。
「めどうです。戸籍には別な名前が記載されてるんですけど、
そっちは偽名で、
『めどう』が本名です。
戸籍名は、今では病院と役所でしか使ってません。
玄関先に『めどう』の表札を掲げ、
郵便局にも『めどう』宛てで届くように申請してあります。
マジック関係者、町内会の皆様、薬局の窓口、
そしてスナックのママさん・・・
みんなが『めどうさん』って呼んでくれてます。
よろしくお願いします。」
名前の由来なんかを話すのは、またの機会にしておこうかな・・・。
自己紹介っていうと、普通は履歴書的なことを書くのかな?
*** *** ***
生まれも育ちも鹿児島県鹿児島市。
昭和31年3月。
アメリカとの戦争に敗れてからおよそ10年が経過し、
経済企画庁より「もはや戦後ではない」という宣言がなされたその年に、
僕は生まれた。
もう、かなり昔の話だ。
高校時代に友人と話していて気付いたんだけど、
幼時記憶が人に比べてはっきりと残ってる方らしい。
みんなそんなもんだと思ってたんだけど、どうもそうじゃないみたいね。
子供の頃のことを話すと、けっこう驚かれるのが意外だった。
2歳9か月の引っ越しの日のこと、それ以前の大雪の記憶や、
その他断片的な記憶が、視覚的に記憶されてる。
※後編は、前編の文末にリンクしてあります。
*** *** ***
5歳のとき、母親の意向によりヤマハ音楽教室に通い始め、
小学校を卒業する頃まで、ピアノのレッスンを続けた。
でも、この頃は、ピアノの練習なんて大嫌いだったよ。
その頃親しんだ1本の梅の木があって、
そのことについて書いたのがこれ
⇩
※おもに幼稚園時代を書いたもの*全5話
*** *** ***
子どもの頃の僕は「夢見がちなところがあった」そうな・・・、
でも、たぶん多くの人がそうであるように、
自分自身では、自分こそが標準だと思ってた。
よくひとりでコマ割りの漫画なんか描きまくってたから、
そんなところが「夢見がち」だと思われてたのかな?
小学生時代、昭和40年前後・・・
当時、男の子たちの遊びと言えば、メンコやビー玉遊びが主流だったけど、そういう遊びの中に加わることには何となく違和感があった。
机に向かい、一心に漫画を描いている時のほうが、
自分らしい自分になれた。
今、こうして文字を連ねているのも、この頃の自分が、
そのまんま心のどこかに居続けているからなのかもね。
※出生から小学校時代の思い出を綴ったもの
*** *** ***
中学1年ぐらいまでは、学業成績も悪くなかったけど、
ギターを弾く友だちに感化されてロックに目覚めてからは、
学校の授業に無関心となり、熱血キーボード少年と化す。
仲間とバンドを組んで、コンテストにチャレンジしたり、
ラジオやテレビのローカル番組に出演などしているうちに、
自分たちは、選ばれし者であるという意識を持つようになっていた。
この頃の演奏ぶりは常軌を逸していたよ。
自分のソロ・パートになると爆音を響き渡らせ、
髪を振り乱し、鍵盤の端から端まで高速で指を駆け巡らせ、
挙句の果てはひっ叩いたり搔きむしったりと、
それはもう狂気の沙汰だった。
周囲の人たちの口から「天才」という声を聞くこともあって、
すっかりその気になり、調子こいてた。
※主に中学時代を書いたもの*全20話
*** *** ***
義務教育終了後、鹿児島市立玉龍高等学校に入学。
本当は、高校になんか行きたくなかったんだけどね・・・。
その頃、キーボードの急激な進化の波が押し寄せた。
それまでほとんど知られていなかった「シンセサイザー」が、
音楽の新時代を切り開くドリーム・マシーンとして華々しく登場。
キース・エマーソンっていうキーボーディストが、
時の寵児として、人気を集めていたよ。
自分が望む方向に、輝ける時代が走り出した・・・
そんな感覚があった。
プログレッシヴ・ロック全盛期。
キーボード・スターになることを夢見てた。
※高校時代のエピソード*前後編
プログレッシヴ・ロックっていうのは、
ジャズやクラシックなど、様々な音楽の要素を取り入れたもの。
そんなところから、興味の対象は様々なジャンルに広がって行った。
また、その頃から、文学にも興味を持ち、国内外の小説を読み漁るようになった。
きっかけは、何だったかな・・・。
プログレの抽象的な歌詞が、文字表現への目覚めに繋がったこと。そこに加えて同級生たちからの感化もあって、カミュの『異邦人』、カフカの『変身』あたりから読み始めた。
あの頃は、未知の芸術作品との出会いにトキメキを感じてた。
くにたち音大作曲科に進学したのも、その延長線上にあったと言える。
でもね、東京に出てからは、
自分の限界を嫌と言うほど思い知らされることになる。
音大を卒業する頃には、
深刻なアイデンティティークライシスに陥ってた。
心理学、催眠法、精神分析などの書籍を、
藁にもすがるような気持ちで読み漁った。
― 洞穴のように空虚な自分の脳内を、
溢れ返るほどの知識で埋め尽くしたい ―
そんな衝動に駆られ、
机に向かってノートを開いては、
様々な文章をあてどもなく書き散らしたものさ。
ユング心理学、シンクロニシティ、集合的無意識、タオ心理学、
百一匹目の猿現象、シェルドレイクの仮説・・・等を知ったのもこの頃だった。
27歳。心機一転。
― このままここにいては何も変わらない。
変わりたい。
何もかもが違う世界に旅立ちたい。
東京ではないどこか・・・
そして、生まれ育った鹿児島とは真逆の世界・・・ ―
嗅覚に誘われるかのように、
旅行鞄一つで旅立った。
長野県小海町にて、きのこ作りの共同作業にアルバイト就業。
約1年半、高度千メートル、美しい自然環境や素朴な人々との触れ合い、それまで体験したことのない極寒の冬を体験することなどにより、干からびていた心が、次第に潤いを取り戻した。
ひと夏を過ごし、アルバイト期間が終わろうとしていた頃、雇用主に正社員として残ることを勧められたこともあって、そこへの移住を決めた。
空き家を探し、東京のアパートを引き払い、
ピアノや楽譜など含めた全財産を運び込んだ。
それから約1年が経過したある雨の休日、
里や山の木々を包み込む雨音に静かに耳を傾けているうちに、
世界と自分の繋がり、自分が個人の意志を超えた何かによって生み出された大いなるものの一部であることを体感。
「やりたいことをやる」から「まず出来ることをやる」に、考え方を改めた。その向こう側に何かが見えてくるかもしれない・・・。
29歳の春。街角で見かけた音楽教室の看板を見て上層部と連絡を取り、即採用が決まった。
長野県内の上田市に移住し、ピアノ教師としての生活を始める。
長野、上田、佐久と広範囲を車で移動し、子どもから大人まで、音大受験生やピアノの先生なんかも教えたよ。
ピアノの演奏技法や教材研究、指導法などに熱意を込めて取り組んだ。
ギーゼキングやシュナーベルのピアノ奏法に関する本なんかも読んだし、
世界的なトップ・ピアニストのCDなんかも聴きまくった。
初期導入教材についても、あれこれと研究したね。
定番のブルグミュラー25の練習曲や、フランスで編集された現代ピアノ曲集『カイエ・ドゥ・ルモワンヌ』などについては、一般指導者向けの解説書を作成したり・・・
いろんな生徒がいたけど、そんな中から2例だけご紹介。
レッスン収入が安定してきた頃、電子楽器やコンピューターなどの機材を揃え、音楽制作に活路を見出す。
主に、地元のテレビ番組やCMその他の実用音楽を作り始めた。
ー 商業音楽を制作する ー
ロック小僧だった10代の頃は、そんなことなど想像さえしなかった。
その頃作った懐かしいローカルCMが、何本かYoutubeにアップされていたので、その中からの3本だけご紹介。
1本目のこれなんか、移り変わるCG画面に、コンマ何秒の細かさでピタリと合わせて作る必要があった。
次に、こちらのCMは、前半途中まで「ヘイ! ヘイヘイ!」って声が聞こえる部分の音楽(8秒ほど)が自作曲。(最後の「Sライ~ン、長野信越定期~♪」っていう部分は、誰か知らない別な人が作ったもの)。
これは、1本目とは違って、出来上がった音楽に合わせて再編集することが可能だったから、あまり神経質にならなくてもよかった。
3本目は、「ジャスコ、どに~ちスペシャル♪」っていうサウンド・ロゴの部分だけが自作曲。これなんかは、要求された秒数にぴったりと当てはまるように作る必要があった。音大の声楽科を出たフリーのアナウンサーの方が、見事に歌ってくれた。
これらすべて、知らない誰かがYoutubeにアップロードしてくれていたのを偶然発見したもの。お陰様で、20年以上経過した現在、自分にとって懐かしくてたまらないこれらの作品を耳にすることができた。
そのことに感謝!
テレビ番組では、テレビ信州制作による『シリーズ~県境を行く』(55分全8本)が最大の思い出かな・・・
テーマ曲の他、番組中の全BGMを制作。
上田の隣のそのまた隣に上山田っていう温泉で知られる町があって、
その町を拠点に活動してた劇団から頼まれて
劇伴音楽を作ったりもしてた。
稽古に立ち会うのも、けっこう楽しかったよ。
上山田町は、ハンガリーの小さな町ベルーツェとの文化交流を続けていて、その一環として、劇団の人たちと一緒に異国の町を訪ね、
日本語による演劇公演を行った。
現地の人々との交流も楽しかったなぁ・・・。
長野県時代、僕にとって最大のイベントは、
『松の木の物語』っていう12曲からなる組曲を作曲したこと。
題材となったのは、上田市の塩田っていう地域に立っていた大きな松。
僕にとってまさに運命的な出会いだった。
と言うのも、
この出会いは、幼児期・少年期・青年期を通じた“ある体験”が引き寄せたものだと言えるから。
これまでに紹介した体験小説『微笑みの木 ~ ある1本の実在した木に寄せて』の中に詳しく書いてある。我が家のそばに立っていた梅の木に関する思い出を綴った作品だ。
それを手作り製本したものを、仕事で知り合いになった方に読んでもらったところ・・・、
ある人物を紹介された。
「その人にも、僕にとっての『微笑みの木』みたいな思い出のつまった木があるのかな?」
みたいなつもりだったんだけど、会って話を聞いてみると、こちらの想像とはちょっと状況が違ってた。
彼自身の思い出の木は、その後の調べで、地域の歴史が刻まれた木だということが分かってきた。
残された切り株から、
明治時代からの歴史が掘り起こされることになる。
次第に歴史が浮かび上がってくる過程を目の当たりにし、その感動体験を書き綴ったのが、ノンフィクション小説『松の木の物語』(全10話)。
さらにそれをテーマにした12曲からなる同名の組曲『松の木の物語』を作曲し、CDとして制作したと・・・、そういうわけだ。
長野時代の代表的な仕事と言えば、長野オリンピック、フラワーセレモニー用の音楽を担当したことになるのかな?
この仕事は、オリンピックの前年に、長野県内各地で開催されたオリンピック盛り上げコンサートに参加したことによって舞い込んだ。制作中だった組曲『松の木の物語』の中から数曲披露し、それがオリンピックの音楽部門主幹の唐沢史比古氏の耳に止まり、オリンピック開催間際になって仕事を振られた。
男子スキージャンプ団体で日本が金メダルと取った時、雪が降りしきる中で、観客の歓声で沸き返る中でのフラワー・セレモニーで、自分の曲が聞こえてきた時は、感動したよ。
ここで18歳の時に書いた詩を1編ご紹介。
『いにしえの唄』
預言者の鈴が起こした波紋が
やがて この大地を揺さぶる
彼女は そんなことを知っていたのだろうか
深い森の奥に立つ巨大な老樹に尋ねたところで
彼が知っているのは千年の昔ではなく
今、この時
ひとりの男が流した ひとつぶの涙
そのまま大海となり 太陽に召された
雨乞いの唄 遠く連なる山々の周り
果てのない螺旋形のようにぐるぐると回り
そして高くゆっくりと移動する
烏の不吉な声が西から東へと響き渡る厚い屏風の上
静寂の飛翔が長旅を終えて降りてくる
そこには多くのものが見えるはずだった
凍りつき蒼ざめた星座が 結晶のような空にへばりついている
彼等の叫喚は荒々しく掻き消され
もうすぐ ちぎれ落ちてくるだろう
やがて雀が目覚め 囀ることだろう
そのとき私は 朝焼けの空にとけてゆく
この詩は、18歳の時に作った『微笑みの木』という歌の原型になったもので、頭に浮かんだイメージをそのまま書いたものだ。
この内容が、どういうわけか、その後の人生や、長野県で作曲することになる『松の木の物語』を思わせる。
18歳の時ではなく、その後東京から長野へと移住し、上田市下之郷で住民の歴史を象徴する大松と出会った頃に書いたかのような・・・。
東京の音楽大学を卒業した後、移住先として山国信州を選んだのには、確とした理由があったわけではないが、
この『いにしへの唄』を目にすると、自分の軌跡には、個人の意思を越えた目に見えない力が働いたようにも思えてくる。
この詩を含めて、体験のすべてが、その源流を辿れば、幼い頃の思い出の梅の木、そして幼き日に聞いた子守歌の一節に行き着く。
― あの山 越えて 里へ行った・・・ ―
まあ、単なる思い込みと偶然の積み重ねに過ぎないと言われれば、それまでだが・・・
*** *** ***
その後、47歳の時、高齢化した両親の住む故郷鹿児島市にUターン。
長野県で活動していたように、音楽制作の仕事が出来ないものかと、放送局や広告代理店に営業をかけてみたりもしたのだが、長野県と比べて、需要自体が少なく、報酬も桁違いに少ないことが判明。その道の続行を断念。
親の介護も視野に入れて、ヘルパー2級を取得し、介護士となる。
その後、母が脳梗塞で倒れてからは、介護職を辞し、両親二人の終末期の介護を行い、特別養護老人ホームの空きを待ちながら介護に明け暮れる生活を約半年間続けた。
その後、父が多臓器不全で亡くなり、母の介護施設への入居もようやく決まり、毎日のスケジュールも以前より楽になった・・・、と思う間もなく、母も老衰のため亡くなった。
さてと・・・、
いっとう最初に「メンタルマジシャンです」と言っておきながら、
以後、ここまで全く「マジック」の「マ」の字も出てこない。
が・・・
それは、突然やってきた。
きっかけは、ごくシンプルな出来事だった。
帰郷して10年の歳月が流れ、57歳になった冬の日。
父の最晩年でもあった。
鹿児島のテレビ局MBCの番組で、山形屋デパートの「手品コーナー」を取材していたのが心に留まった。
軽い気持ちでちょっと覗いてみたんだけど、そのときは、もちろんマジシャンになるつもりなど毛頭ない。
売り場にいたのが、“鹿児島のマジック界のパイオニア的存在”と言われる天地博之氏。
いくつかやってみるようにと言われて、お手本を見ながらやってみると、その場で出来てしまった。
以後、売り場を訪ねるたびに、彼は僕を屋上に連れ出して、缶コーヒーを飲みながら、シガレットやコインを使ったマジックを無料で教えてくれた。
そして、事あるごとに、「この人は、プロになる人だ」と周囲に紹介するようになった。
その後、一旦介護職に復帰し、与えられた夜勤の仕事を続けながらも、
仕事の無い日は夜の街に足を運び、新たな人生を歩み出す手立てを探っていた。
そして、当時、繁華街天文館にあったマジックを売りにしたカラオケバーのマスターとねんごろになり、マジシャンとしてアルバイトをさせてもらうようになった。
ようやく新しいスタートを切ったかと思えたのも束の間、
夜勤のストレスがたたって、直腸がんを発症。
62歳。10月。患部摘出手術を受け、以後オストメイトとなる。
手術直後、早期職場復帰を目指す。
手術後、衰弱により立ち上がることも困難となった体力を回復するために、全力でリハビリに取り組んだ。
退院時、担当看護師さんが目を見開いてこう言った。
「こんなに頑張ってリハビリをした患者さんは初めてでした。
前例がないです。これからも頑張ってください」
僕の手を包み込んだ両手から、気持ちが伝わって来た。
そんなわけで、異例の速さで職場復帰を実現させたが、
頑張りもそこまでだった。
職場では、その並外れた頑張りも何ら評価されることはなかった。
こちらはこちらで、リハビリへの取り組みなどを周りに説明しようともしなかったし・・・。
それともう一つ、
両親を亡くしたことで、介護職へのモチベーションが落ちてもいたことも確かだ。
これ以上細かいことを言うのはやめにして、結論だけ言っておこう。
気持ちが冷めた。 気持ちが切れた。
そして吹っ切れた。
介護職を続けることに無理を感じ、僕はそこを離れた。
** ** **
以後、マジック関係者との交流を持ち続け、
鹿児島マジック界の重鎮・瀬紀代巧氏からも「プロ」として認める言葉が聞かれるようになった。
地域の中で何度となくマジックショーを行う機会にも恵まれた。
そういった体験を通じて、
自分独自のスタイルが次第に形作られ、
メンタルマジックにたどり着いた。
― この分野だったら、
これまで様々な人たちと関わってきた体験を生かせる。―
そう思った。
というわけさ。
心を癒すような効果音楽を流しながら、
語りによるコミュニケーションを中心に据え、
人の心に触れる不思議な驚きにみちたメンタルマジックを展開させ、
そこに一体感のある不思議な空間を創出する。
成立した瞬間のお客さんの驚きの表情と、それに続く笑顔、
そして自身の胸の内に広がる幸福感。
手応えは得ている。なかなかの好感触だ。
単に「マジックをする人」っていうだけじゃなくて、心の中を描き出した文章作品、ステージでのトークや音楽とのコラボなども含めた総合的なパフォーマーとして、「メンタルマジシャンめどう」を多くの人に知ってもらいたいと思ってる。
新しい物語は、まだ始まったばかり、
** ** **
ここまで自分のことについてざっと話してきた。
そのついでに・・・、
と言っちゃ何だけど、
亡くなった父、そして若くして亡くなった妹について、
少し触れておきたい。
彼らが残した数々のエピソードは、平凡の域を脱していて、誰かに伝えたいという気持ちを抑えることが難しい。
父は、一種のハンドパワーの持ち主で、手のひらをかざしての気功治療が出来た。教職を退いたあとは、「健康教室」と銘打って、近所の人たちを相手に気功治療を行い、半ば神様扱いされていた。
そして、妹・・・
この妹、誰でもは持ち得ない、ちょっと特殊とも言える能力“霊感”の持ち主だった。亡くなった人の霊が見えたり交信できたりっていうやつね。
そのことを知ったのは、成人してから後のことだった。妹が直接話してくれたんだけど、その時初めて、実は母にも霊感があったことを知らされた。
母と妹が二人きりの時には、霊感のある者同士でしか成り立たない会話が日常的に交わされていたそうだ。
その能力は、妹の娘(つまり僕の姪っ子)にも遺伝した。
今から20年ほど前、鹿児島にUターンする直前のことだった。まだ小学生だった姪っ子が、亡くなった友人の霊を呼び出してくれたことがある。
姪っ子にとっては会ったことも無い人だったわけだけど、直接あったこともないその友人の姿が見えているようで、語られる姿形の特徴は、まさに彼そのものだった。その後、彼女の口を通じて語られることも、彼本人が話しているとしか思えない内容で、あの時は本当に感動したよ! まさに「すさまじい」という言葉がふさわしい霊能力だと思った。
** ** **
これから発表する予定の作品全部が「自己紹介」って言えると思う。
そんなわけで、末永くよろしくお願いします!
![](https://assets.st-note.com/img/1693593733363-ZqMeAxtLDB.jpg?width=1200)