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「西郷隆盛と大久保利通“誕生之地”」

 鹿児島市加治屋町。幕末から明治にかけて活躍した偉人たちが何人もここから巣立っています。

 町内を歩くと、あちこちに誕生地を示す石碑が目に付きますが、中でも特に立派なのが、「維新三傑」に数えられる西郷隆盛と大久保利通の「誕生之地」碑。屋敷跡地がそのまま公園として保存されているのもこの二人だけです。


 こちらが西郷さんの「誕生之地」碑。

 そしてこちらが大久保さんの「誕生之地」碑。(正面からだと逆光で真っ黒になるので、背後から撮影)

 この2枚の写真を一瞥しただけでは、同一物を角度を代えて見ただけのように思えるのではないでしょうか?

 両地の距離は、わずか30メートル前後。歩いて1~2分という近さ。

 建立碑もそっくりです。

 こちらが西郷さん。

 碑文の最初の部分に「西郷君」という文字が見えます。

  こちらが大久保さん。

 2行目以下の文章は、まったく同じもの。

 どちらも明治22年3月20日に建立されています。

 二つの建立碑には共に、筆頭の大山巌をはじめ、西郷従道、黒木為禎、東郷平八郎など、そうそうたる人物が名を連ねています。

 誕生之地碑に負けず劣らず、この建立碑も貴重な歴史資料ですね。


 人気の高い西郷さんに比べ、大久保さんのそれは雲泥の差があり、「西郷どんを死に追いやった裏切り者」として、多くの鹿児島県民から相当に嫌われていたと聞きます。
 しかし、同じ時代を共に生きた軍人や政治家たちにとっては、やはり大久保さんは偉大な人であり、西郷さんに勝るとも劣らない尊敬の対象であったことが、これらの石碑からも偲ばれます。

 両者の「誕生之地」碑には、それぞれ近年作られた案内塔が建っていて…。

 西郷さんのほうは「誕生地」と記してありますが、

 ご覧のように、大久保さんのほうは「生い立ちの地」となっています。

 「生い立ちの地」と微妙な表現になっているのはなぜでしょう?


 実は、実際の生誕地は、ここではないのです。

 
 ということは、大山巌さんや東郷平八郎さんたちが、ウソをついたのでしょうか?


 もちろんそんなことはありません。こういう事態が起こったことに特に深い理由はありません。石碑が製作された時点では、ここが誕生地であると信じられていたのです。

 ところが、公開直前になって、実は隣町の高麗町に生まれ、幼少時にここに引っ越してきたということが明らかになりました。

 ですが、すでに「誕生之地」の文字が刻まれていたため、「誕生之地」と刻まれた石碑が、そのまま公開されることになった・・・

 ということです。

 こういった経緯を、現代の感覚に当てはめると、大雑把過ぎて間の抜けた感じさえします。しっかりとした裏づけも取らずに、思い込みだけで事を進めるなんぞ、今では考えられないことです。

 しかし、当時のエピソードをいくつか拾い上げてみると、有り勝ちなことだったとも思えてきます。

 西郷隆盛として知られる人物の本名は、実は「隆永」であり、「隆盛」というのは西郷さんのお父様の名前です。
 以前「トリビアの泉」というテレビ番組で取り上げられたことがあって、そのとき初めて知ったのですが、以後何度か見聞きしているので、現在ではけっこう知られた話なのではないかと思います。

 西郷の友人吉井友実(よしい・ともざね)が、不在の西郷に代わって新政府に名前を届ける折、通称名の「吉之助」しか思い出せず、聞き覚えのある「隆盛」という名前を勘違いして伝えてしまったのです。
 後にそれを知った西郷は、怒りもせず「オイは隆盛(たかもい)ごわひか?」と言って笑っただけだったといいます。

 西郷の弟・従道も、本名は別にあります。
 西郷家は名の一時に「隆」の字を使う慣わしがあり、従道の本名も従道(じゅうどう)ではなく隆道(りゅうどう)です。

 それが「従道」と登録されてしまった原因は、本人の薩摩訛りにあります。

 「ラ行」の発音が、薩摩弁だと「ダ行」に近くなってしまうのです。  
 例をあげると、「両棒(りゃんぼう)餅」は「ぢゃんぼ餅」、「らっきょう」が「だっきょ」。

 それと同じように、「隆道(りゅうどう)」と発音したつもりが「じゅうどう」と聞こえ、「従道」と登録されてしまったというわけです。本人もそれを正さなかっただけでなく、以後「従道」と名乗るようになったというのです。

①西郷の名前を、彼の親戚でもない吉井友実に訊いた明治政府。
②それに対して、勘違いして西郷の父の名を伝えた吉井友実。
③名前を間違って登録されても訂正しなかった従道。

 こういった事例に照らしてみると、大久保の幼少時の住居跡に「誕生之地」碑が建ってしまった当時のおおらかな気風が感じられますね。

 では、大久保さんの実際の誕生地はどこなのか…。

 はじめてそこを訪れたとき、あまりにも意外に感じ、驚かされました。

 何に驚いたかというと、

「それまでに何度もその前を、全く気付きもせずに通り過ぎていた」

 という事実に対してです。

 これまで見た「誕生地碑」の中で、これほど目立たないものはありません。

     **

 「偉人誕生地」として知られる加治屋町にある「維新ふるさと館」から、甲突川に沿って南下し、高麗橋を渡って左折すると、

 こんな通りが待ち受けています。

 鹿児島中央駅から東へと伸びる「ナポリ通り」と呼ばれる大通り。

 ここで立ち止まって振り返ってみると、

 遠くに鹿児島中央駅の駅ビル屋上に設置された観覧車が小さく見えます。

 再度振り返って、さきほどの道を前へ前へと歩いてみましょう。


 歩道の幅が狭くなります。

 さらに歩くと、左側に古ぼけたブロック塀が見えてきます。

 なんだか息苦しく感じられます。

 塀が途切れると、その向こう側に開放感のある景色が見えてきます。

 広い道路を横断しなければならないので、左右確認を忘れずに・・・。


 そして渡りきり、

 広々とした歩道は、とても気分が良いですね。


 はい・・・、
 ここまでの間に、大久保さんの生誕地碑があったんですよ。


 写真にもそれが写っていたんですけど…、
 お気づきでしょうか?


 ここで振り返ると、こんなふうに見えます。

  今来た道を、少しi戻ってみることにしましょよう。

 これまでにご覧いただいた写真の中から、この1枚を再度ご確認ください。

  左側のブロック塀に隠れ、縮こまるように、石碑と案内板が写っています。

  地元における、かつての不人気ぶりが反映されているようです。

       **


  現在では、このような颯爽とした姿の大久保像が建っています。

 没後100年を記念して1979年9月26日に中村晋也氏によって制作されました。 
 西郷銅像が建立された1937年から、実に42年後のこと。

 「西郷さんを裏切った男」として長い間、多くの鹿児島県民から忌み嫌われていたのですが、この颯爽とした姿の銅像が建立された頃から、地元での大久保のイメージも変わってきたように感じます。

 加治屋町にある「維新ふるさとの道」の入り口付近、電車道路を挟んだ隣町西千石町に立っています。





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