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ゆめのはなし

 建て替えられたばかりの高校の体育館は、中学校の古く手狭なそれと違い、新しくて広かった。そして、建材の化学的な香りとワックスの匂いと緊張感で満たされている。落ち着かない表情の300人とその保護者、そして疲れた表情の教師たち。それぞれの視線を背中に集めて、その女子生徒はアナウンサーがやるみたいに、自然に、でも聞き取りやすい声で新入生代表挨拶を読み上げている。
 あいつは華がある。
あいつのアレは本当にすごい才能だ。保育園からの幼馴染みだけど、未だにあいつが同い年の人間だとは思えない。たぶん宇宙人なんじゃないか。
「伝統あるこの学び舎で学業に邁進し、一度しかない青春時代を謳歌することを誓い、新入生代表挨拶とさせていただきます。令和六年四月八日 新入生代表 浅川結芽(ゆめ)」
 挨拶を終えて振り向いた結芽に向けて、拍手の雨が降り注ぐ。お仕着せの拍手ではなく、「素晴らしいスピーチ」と認められているのが分かる拍手だ。
 そのスピーチ原稿のほぼすべてを、僕が書いた。

 あいつは人前に出ると神がかり的に人を惹きつける。歌もダンスも楽器もスポーツも、観客の前では完璧だ。完璧に演じられる。でも、いつも脚本が書けない。
 あいつは役者なんだ。だから、僕はいつも結芽の脚本を書いてきたんだ。僕の書く脚本はいつも結芽を輝かせてきた。
 保育園のお遊戯会でセリフが言えずに泣いているのを助け、小学生のときの写生大会で何を描いたらいいか悩んでいた彼女にアドバイスし、中学生では読書感想文をほぼ全部代わりに書いてやった。そしてその全てで結芽は表彰された。
 他にも日常の細かいことでも助けたりしているが、結芽が輝くときは僕がその裏にいる。僕は月の裏側なんだ。ずっと、この先も。

 高校初日を無事に過ごしたあと、最寄り駅まで一人で向かう。傘にあたる雨音を聴きながら足下でアスファルトに張り付く桜の花びらを見ていると、桜の雨が降っているように感じる。
 駅のホームで、結芽が新しい友人たちと一緒にいるところに出くわした。
「さねちゃん、やっほー。クラス、別になっちゃったね。何組?私は5組だよ」
「おー、結芽。早速友だち?さすがコミュ強。僕は2組。あ、てことは別校舎じゃん。遠いなー、教科書借りに行くのめんどくさいなー」
「自分の使えし」
 きゃははと笑って、結芽は一緒にいた1年5組の女子3人に僕を紹介してくれた。
「さねちゃん、川村実朝(さねとも)くんはね、保育園からずっと一緒の幼馴染みで、文章を書くのがすごく上手なの。今日のスピーチも一緒に考えてくれたんだよ」
「えー!幼馴染みなの。なんかエモい。いいじゃーん。あー私もさねちゃんと早く友だちになってれば、推薦入試のときの小論文手伝ってもらえたのにー」
 黙れ。モブの脚本を書くほど僕は暇じゃない。という本心を丁寧にラッピングして心の奥の戸棚にしまい、僕は無難に答える。
「あれは文章がどうこうよりも、結芽の読み方が上手かったんだよ」
「たしかにー。アナウンサーみたいだった!」
「いやいや、少なからず多少ちょっとあたしも緊張しててさ、何度もカミそうになってたんだよ」
 結芽の話は、昔から程度が分かりにくい。
 そのときオレンジ色のラインが入った電車が桜の雨を掻き分けてホームに入ってきた。電車の中は、修学旅行の貸し切り電車のように高校生でいっぱいになる。
 僕たち5人は、電車の中ほどまで押されるように入っていく。
 それから結芽と僕以外の3人が途中で降りていくまで、適当に相槌を打ちながら過ごした。
「いよいよ始まりましたね、高校生活。初日の感想はいかがですか?実朝くん」
「そうですね、幼馴染みというか腐れ縁の結芽がいるので、特別感はないです。でも一度しかない青春時代を謳歌することを誓い、質問の答弁とさせていただきます」
「素晴らしい回答ありがとうございました。ふふっ」
 結芽の笑顔を見ながら、彼女の一度しかない青春時代が輝くようにこれからも脚本を書いていってやる、と僕は言わなかったことも誓った。

 その日の夜、僕の夢に結芽が出てきた。
 翌朝起きると、パンツがカピカピになっていた。吐き気がするほどの自己嫌悪を何とか下着にくるむと、独特の匂いを放つそれをゴミ箱の奥に押し込んだ。

 結芽は書道部と陸上部で最後まで悩んで、結局二つの部活を兼部した。僕は入部届に陸上部とだけ書いて提出した。何も考えずに走るのは好きだったし、結芽という主人公の隣にいる幼馴染みが陰キャデブでは彼女の魅力を落としてしまう。ダイエットも兼ねて陸上部で走ることにした。
 僕は入部届を出した日から、走り幅跳びと短距離走と書道についてYouTubeと本で調べ始めた。
結芽はその年の夏の大会に、走り幅跳びと200m走の選手として登録された。1年生での抜擢は、4年ぶりだそうだ。
 僕は当たり前だと思った。部活が終わってから、二人で近所の公園でフォームや踏み切りをどれだけチェックしたと思っているんだ。元々長距離選手だった顧問教師には、結芽の指導は荷が勝ちすぎる。僕が一番結芽を輝かせる方法を知っているんだ。
 秋には結芽が書道部で書いた、漢字かな交じりの書が県の大会で入選した。
 当たり前だ。結芽の字のクセを踏まえて、彼女の字が最も映える文を選んだのは僕だぞ。結芽の才能の活かし方は、僕が一番よく知っている。
 結芽の青春時代に一つたりとも汚点は残さない。

 今年の夏は猛暑になりそうだと、起き抜けに読んだネットニュースで気象予報士が言っていた。実際まだ5月下旬なのに、連日30度を超える気温が続いている。
 習慣となった早朝5キロのランニングも、家に戻る頃には汗だくになる。来年3月に控えた大学受験のことを考えると、ランニングより勉強のほうが良いのかもしれない。
軽くシャワーを浴びて、朝食をすでに湿度が高くなり始めた午前7時に僕は家を出た。駅に着くと、後ろから声をかけられた。
「さねちゃん、おはよー。今日も暑いねー」
 振り向くと、首筋に汗を光らせて結芽がぽんと僕の肩を叩く。
「おはよ。もう夏服にしてもいいよな。男子なんて学ランだぜ。女子のスカートがうらやましいよ」
「さねちゃんも履けばいいじゃん。今はちょっとジェンダー平等が広く普及してきている令和の時代だよ」
「それは遠慮しとく。結芽にスカートめくりされそう」
「しないわ!でもさ、私もスカートの下、スパッツ履いてるから、まあまあ少し暑いんだよね」
 スカートのプリーツをひらひらさせて、結芽は先に改札を通る。僕は結芽に続いてICカードを改札にタッチした。

 午後7時になって、木に囲まれた公園に気持ちの良い風が通るようになった。
 まだ夜の暗さは東の空でじりじりしているが、いい加減腹が減ってきたので結芽に声をかける。
「来週はもう大会だし、オーバーワークになっても良くないから今日はもう帰るか」
「え、もうそんな時間?まあ、お腹空いたし、帰ろっか」
 それぞれの家に向かう交差点で挨拶をする。
「それじゃ、結芽。また明日」
「うん、さねちゃんも。勉強ばっかりしてないで早く寝るんだよ」
「いや、うちら受験生だから。そろそろ受験勉強も始めていくわ」
「あーそっか。そうだった。嫌なこと思い出させないで」
 僕はなんとなく名残惜しくなり、もう少し会話を続けようとして話しかけた。
「そういえば、結芽は志望校決めたの?」
「・・・まだ。大会終わってから考える」
「決まったら教えてよ。結芽の受験勉強くらい手伝う余裕はあるからさ」
 僕が陰ながら手伝うことで、結芽の成績がこれからぐんぐん伸びていくイメージが立ち上がってきた。卒業式でも卒業生代表挨拶を務める結芽に、憧れの眼差しを向ける後輩たちの姿も。
「ありがと、さねちゃん。あー本格的にお腹空いてきた。それじゃね」
 翌日は雨になった。久しぶりの雨に、木々の緑や花壇の花が喜びながら深呼吸している。僕はランニングには行かず、数学の問題集を開く。
 サーっという薄いノイズのような雨音と薄墨をこぼしたような雨雲が、建物もその中にいる人も包んでいく。

 その日、結芽は学校を休んだ。
 朝から降り続く雨のせいで、陸上部は室内で筋トレをしている。居座り続ける雨雲のせいなのか、北校舎だからか、それとも結芽がいないせいなのか、部活の雰囲気が暗い。
 スクワットをしていると、結芽と同じ短距離選手の後輩が話しかけてきた。
「川村先輩、トレーニング中すみません。あの、今日って浅川先輩はお休みですか?今日の練習でスタートのフォーム見てもらう約束だったんですけど」
「あ、そうなんだ。なんか今日休んでるみたい。メッセージ送っても既読にならないから、寝込んじゃってるのかなあ」
「はあ、そうですか。お大事にって伝えておいてください」
「ん、言っとくわ」

 雨は夕方過ぎにさらに強くなった。
 雨の湿気と部活帰りの高校生から立ち昇る汗の蒸気、その汗をごまかすための制汗剤の匂いで、電車の中の不快指数が上がっている。駅でドアが開くたびに、少しだけ涼しい空気がドアのそばに座る僕の右肩を撫でる。
 ほとんどの高校生たちがもぞもぞと降りる準備をし始めた。ターミナル駅に着いた。
 まるで電車の外が真空になったように、乗客が吸い出されるように外へ出ていく。
乗り換えもなく一人でいる僕は、ガラガラになった車内で、ふと世界に一人だけになったような孤独感を感じて、鳥肌が立った。
結芽に家に行ってみよう。結芽と恋人になりたいと思ったことはない。主演女優と脚本家。その関係を今までもこれからも捨てる気はない。

 家に帰る前に、結芽の家に行くことにした。
 傘に当たる雨音が激しくなってきた。スニーカーはすでにずぶ濡れで、歩くたびに水を含んだ靴下が靴の中で、ぐちゅっぐちゅっと鳴る。
 結芽の家は、暗かった。呼び鈴を鳴らしてみるが、調子はずれにピンポーンという音が夜に吸い込まれていく。
 スマホを取り出して、もう一度メッセージアプリを開く。朝から結芽のスマホにメッセージを送っているが、一つも既読にならない。即レスするタイプじゃなかったけど、20件も未読を溜めたことは、今までなかった。
 暗闇でスマホの画面を見ていたら、母から通話がきた。
「あんた、どこにいるの?」
「いや、結芽の家。今日休んでたし、全然連絡つかないから来てみた」
「あ、そう。・・・詳しいことはあとで話すから、大至急帰ってきて」
「あ、うん、分かった」
 

 結芽が死んだ。
 母はこういう冗談を言うタイプじゃない。
 結芽が、死んだ。
 今朝、学校へ行く途中で信号無視のトラックに轢かれた。ほとんど即死だったらしい。カメラ映像によれば、運転手はスマホをいじりながら運転をしていて、よそ見していたのが事故原因だそうだ。その運転手も、結芽をはねたあとにトレーラーに追突して亡くなった。
「明日が通夜で、明後日が葬儀だって。結芽ちゃん、ほんとにかわいそうに。小っちゃい頃から知ってるからさ。私たちは通夜の準備から行くけど、あんたも来るでしょ?仲良くしていたし」
「分かった。明日一緒に行くわ。今日はちょっと疲れたからもう寝る」
「夕ご飯は残しておくから、夜中にお腹すいたらあっためて食べるんだよ」
 僕は返事の代わりに軽く手を挙げて応えて、階段を上って2階の部屋に入った。

 部屋のドアを閉めると、ベッドの倒れこんだ。
 枕に顔を押し付けて、息苦しさを感じながら自分への悪態が浮かんでくる。
 こんなの僕の脚本になかったはず。どうすればいい。どうすればこの状況を覆せるんだ。死んだら生き返らない。いや、本当に死んだのか。死んでいるなら伝説にすればいい。いや、今からだと後付けになる。どうする。どうする。結芽、結芽、なんで。なんで。
 反省点が多すぎて線になる。線になって結芽を描く。あの時こうしていれば。いや、この時にこうしなかったら。たらればの波が、描かれた結芽を飲み込む。
 天井にカーテンのすき間から入った光が青白く筋となって浮かびあがる。もうすぐ夜明けだ。雨はあがったらしい。
 主役のいない世界に、脚本家なんていらないだろう。
 僕の人生の主役がいなくなったことをようやく受け入れて、ベッドから起き上がる。
 僕は、ジャージに着替え、シューズを履き、ランニングコース途中の川へ走る。昨夜までの雨で増水している川へ。



七緒よう

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