なきイチゴ
「お会計、543円になります」
財布から千円札を一枚取り出してトレイに置く。これで財布の中に紙のお金が無くなった。次のバイト代が入るのが、明後日。いや、しあさってだったかな。
「457円のお返しです」
受け取った小銭から二枚の一円玉をレジ横の募金箱に入れて、残りをジャラジャラと小銭入れに流し込む。今まで募金した金額で、お茶くらい買えるんじゃないか。
僕は少し横にズレて、値引きシールの付いていたかつ丼がレンジの中で温められるのを待った。
店員の女の子が、いかにも熱そうにかつ丼をレンジから取り出す。そこだけ早送りになったみたいに素早く待機させていたレジ袋にかつ丼を着地させ、一緒に買ったジャスミン茶も袋に入れて渡してくれる。
「ありがとうございましたー。またおこっせんせー」
平たい調子で放たれる独特の発音の「またお越しくださいませ」を背中で聞きながら、コンビニを出た。
いつもはしていないピンク色のネイルをしていたあの店員は、このあと彼氏の家にでも行くのだろうか。僕の住むアパートと大差ない広さの部屋で、裸になって彼氏と一つの布団に入るんだろうか。そういえばもうすぐクリスマスだ。
築15年の自分のアパートまで、徒歩5分。氷点下の空気がコンビニ袋と一緒にかじかんだ指に食い込んでくる。
アパートの部屋に戻ると、コートを脱がずにコタツに足を潜り込ませ、一息つく。
書きかけの論文が表示されているノートパソコンを奥にやると、押し出された参考文献がテーブルから落ちた。
あっという間に冷めてしまったかつ丼をスプーンでかきこみ、美味しいものを美味しく食べる経験の乏しさからくる虚無感をご飯と一緒に飲み込む。
作られてから十数時間。冷たくなってもカピカピにならないご飯なんて、美味いわけがない。ただの燃料だと思ってかきこむ。
ものの数分で容器を空にすると、少し暑くなってきた。
コートを脱ぎ終えたタイミングで、テーブルの上の携帯がガタガタと震えた。二つ折りの携帯を開くと、同じゼミの友人の名前が表示されている。コートを空いたスペースに放り投げてから、通話ボタンを押した。
「今大丈夫?」
狭山の鼻声が聞こえてきた。
「いいよ。まだ風邪治らないの」
「そうなんだよ。なかなか熱が下がらなくてさ。で、明日のバイトだけど、9時集合っていったけど、やっぱ8時でお願いできる?」
「いいけど、今の時期ってやっぱけっこう忙しいんだな」
狭山が電話の向こうで咳をした。
「そりゃな。クリスマスなんて苺がなきゃ始まらんだろ。赤いし。あ、おふくろたちが昼飯と夕飯を用意するから、神田も一緒に食べようってさ。どうせまともな食事してないんだろ」
見透かされているのはちょっと癪だけど、すごく助かるのは事実だ。
「めっちゃありがたいけど、なんか悪いよ」
一応は遠慮を見せておく。
「いいからいいから。それじゃ明日8時な。親父とおふくろにも伝えておくわ」
「ん、分かった。ありがとう」
携帯電話を閉じて時計を見ると、時刻は22時を回っていた。
少しも眠気を感じていないことに気づき、最近卒論のせいでずっと夜型の生活をしていたことを思い出す。
僕はかつ丼の空き容器をレジ袋に突っ込んで脇に避け、ノートパソコンを引き寄せて書きかけの論文を保存する。
「今日くらいちゃんと布団で寝るか」
さっきの電話が、この日初めてのまともな会話だったせいか、つい独り言が出る。
たった数分の会話で、飲み込んだ虚無感がこんなに容易く消化されたことに、自分でも驚いた。
全部で20アールの苺畑は、すでに半分以上収穫が終わっており、僕はいわば残務処理要員として呼ばれたんだろう。
苺は柔らかくて潰れやすい。狭山のお父さんが収穫の仕方を教えてくれた。手で包み、指を立てずにそっと引くと傷つけずに収穫できる。
やればやった分だけ結果が出る作業が、思った以上に気分転換になる。
収穫していると、お昼ご飯にしよう言われた。もうそんな時間か。狭山のお父さんと一緒に家に入った。
狭山家のダイニングには、ご飯と味噌汁、肉野菜炒め、玉子焼きが並んでいた。そして、少し遅れて苺もそこに並んだ。
「お疲れ様。ごめんね、急に朝早くからの作業になって。あの子が風邪なんかひくから」
狭山のお母さんが取り皿を渡しながら言ってきた。
「いえ、全然大丈夫です。むしろ最近夜型だったので、規則正しい生活のきっかけになって良かったです」
「それならいいんだけど。あ、ほら、そこ座って。昨日の夕飯の残りで悪いけど、おかわりもあるからたくさん食べてね」
「ありがとうございます」
お父さんの話では、昨夜急遽追加の出荷が決まったそうで、人手が足りなくなったらしい。
僕は「いただきます」と手を合わせて、具だくさんの味噌汁をすすってからご飯を口に入れた。近所の米農家がくれた米だそうだ。
僕はたぶん、その時初めて米本来の甘さを感じた。こみ上げるものがあるほどの感動を、甘さと一緒に感じている。
たぶんこのお米は、乾いたらカピカピになってしまう。冷めたら固くなる。ただの燃料ではない、簡単でも手のかかった料理がそこにあって、それを誰かと一緒に食べている。ただの作業ではない、人と囲む食事がそこにある。お米の温かさと甘さを噛みしめていると、自分の中のささくれて尖った部分が丸くなるような気がしてくる。目の前で湯気を立てている白くて丸い粒が無性に愛おしくなる。
具だくさんの味噌汁は、もはや野菜の煮物のようだった。朝からの地味な作業は、重労働というほどではなかったけど、具だくさんの味噌汁に「お疲れさん」と言われているようで、角が丸くなった野菜の口当たりが優しい。
ふと気づくと、お母さんが驚いた様子でこちらを見ている。
「大丈夫?何か変な味した?」
涙を流していたことに気づいていなかった。
「大丈夫です。美味しすぎて泣けてきているだけです」
「えー!何それ。そんなに褒めてもらえるなら毎日料理を作りに行こうか。ははは」
デザートに食べた苺は、さっき僕が収穫したものを洗って出してくれたらしい。
甘さの前に主張してくる酸味が、少し寝不足気味の体に心地よい。酸味の後に尾を引いて残る甘さも、しつこくならないうちに余韻を残して消える。
あ、やばい。また。
「おいおい、神田くん。普段どんな食事してるんだよ。洗って出しただけの苺でも大泣きしてるじゃないか」
お父さんが笑いながらティッシュを渡してくれる。
「ありがとうございます。ほんとに、今日、バイトに来てよかったです。こんなに美味しいごはんが食べれて最高です」
お皿の上に残った苺は、水滴がついていて、なんだかそれがちょっと泣いているようにも見えた。
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