感謝
──そんな目で俺を見るな。俺は悪くないじゃないか。
周囲の目が一斉にこちらに向く。クラスの真ん中で俺を見るあいつから、不穏な期待と軽薄な侮蔑を感じて、つい悪態が口から出そうになる。顎にしびれが残るほど奥歯を噛みしめてから、努めて明るく聞こえるように言った。
「悪かったよ、ごめん。それと、俺の譜面に納得してくれてありがとう」
──なんで俺が許されて、それを感謝する構図になってるんだよ。ふざけんな。
同調圧力という見えない搾汁機から絞り出された『ありがとう』は、空気の抜けたゴムボールのように弾むことなく床に落ちていった。
合唱コンクールの曲を決めるホームルームの時間に、綾瀬は休みだった。
クラス替えのない理数科で、綾瀬は1年生の頃からいつもリーダーシップを発揮していた。昨年の合唱コンクールの曲決めでも、こないだの運動会のクラス競技も、率先して綾瀬がクラスをまとめていた。
そんな綾瀬にとってリーダーシップを発揮する大事なタイミングで、残念ながら彼は季節外れのインフルエンザにかかって欠席した。
その結果、たまたま俺が提案したJ-POPの合唱アレンジが採用された。
ただ、そのままのアレンジでは三部合唱だ。本番は四部合唱さらに音楽経験のある俺がリアレンジして足りないパートの譜面を作ることになった。
一週間後、テナーを2つに分けて四部合唱にした譜面を持って教室へ入ると、後ろから声を掛けられた。
「おう、八幡、久しぶり」
少し鼻声交じりの声の主が一瞬誰か分からず振り返ると、綾瀬が片手を上げて挨拶していた。
「おう、おはよう。もう体調は大丈夫なのか」
「まあね。熱は下がったし、食欲もあるけど、この鼻声がな」
マスクに隠れた鼻を指さしながら綾瀬が答える。
「そっか、まだあんまり無理すんなよ」
そう言って、俺はクラスを見渡して合唱係の女子を探す。彼女は窓際で他の女子と話をしていた。
カバンから譜面を取り出し、彼女のところへ渡しに行く。
「おはよう。これ、四部合唱にした譜面」
「あ、おはよう。もうできたの?すご」
「パート分けとか相談に乗れると思うし、歌ってみて変なとこがあったら教えて」
「わかった。先生にコピー頼んでおくね。ほんとすごいわ。ありがとね」
彼女の素直な驚きと感謝に嬉しくなる。そういえば、彼女は目立つようなタイプじゃないけど、誰からも親しまれている気がする。
「うん、よろしく」
六文字に喜びを込めて返事をした。
その日は先週と同じで、6時間目がホームルームだった。
合唱係が譜面のコピーを配る。全員にわたったタイミングで、綾瀬が手を挙げた。
「あの、ちょっと一つだけいい?」
綾瀬は立ち上がり、教室の真ん中あたりの席から、クラスをぐるっと見回して発現を止める者がいないことを確認すると、続きを話し始めた。
「休んでたのに、今さら決まったことに口を出す気はないよ。そもそもおれも同じ曲を出そうと思ってたしね。でもさ、決まったら教えてほしかったんだよ。特に八幡からは連絡ほしかった。休む前に、八幡には合唱コンクールでやりたい曲があるって言ってたから」
綾瀬はその切れ長の目をじっとこちらに向けている。
こいつ、今それを言うのか。
「まあでも、いいんだ。今さら言ってもしょうがない。ただ、今後同じようなことが起きたときに、たまたま欠席したことで、誰かが疎外感を感じるのは良くないなと思って、あえて言わせてもらいました」
愛想の良い笑顔を作って綾瀬が一息つく。でも、まだ座らない。
「と、言いつつ、八幡の作った譜面は素人目に見てもすごいと思うんだ。これを作ってたんなら、連絡してくれなくてもしょうがないかって納得したよ。ま、おれが言うのも変だけどさ。ありがとう」
そう言うと、ようやく綾瀬は座った。
担任はいつものように腕を組んで見ているだけ。
クラス中の視線が俺に集まる。
俺は努めて明るく答えるしかなかった。歯を食いしばりながら。
最寄り駅から家への帰り道は、いつも大きな公園を突っ切ることにしている。近道になるのも理由だけど、ちょっとした林にある公園内の遊歩道を歩くのが昔から好きだった。
柔らかい土と葉っぱが重なった地面を踏みながら、今日のホームルームを思い出す。
初めて『ありがとう』という言葉でぶん殴られた気がした。あれは、えーっと、そうだ。ルサンチマンなんじゃないか。今日の1時間目の倫理で先生が言っていたやつだ。
乾いて積み重なった松の葉を踏んで、足元からパチパチと音がする。
俺だって、聖人じゃない。それでも声の大きさじゃなくて、声の美しさで心が動く人でありたい。
綾瀬のリーダーシップもあいつの今日の発言も、真っ向から否定するつもりはない。連絡しなかった俺にも落ち度があるかもしれない。
だけど、俺は包むように『ありがとう』を使いたいと思う。
合唱係の彼女のように、小さくても素直で美しく。
遊歩道が切れて、広場に出た。西の方がオレンジ色に暮れなずむ空を見上げると、小さな光がすっと空を横切った。
そうだ、今日は流星群の極大日だ。
俺はなんとなく「ありがとう」と口に出してみた。オレンジと群青の境目に小さな声が吸い込まれていった。
七緒よう
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