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眠そうな獣と舌出す獣

ここに連載投稿していた『声』という作品を書き直して、あるコンテストに応募しました。
結果的に惜しくも大賞は受賞できませんでした。
しかし、いただいた講評も決して悪いものではなく、受賞まであともうちょっと、という感覚です。

その応募作品を有料公開いたします。
以前の『声』と基本的に一緒ですが、細かい部分が違います。

あらためてお読みいただければ嬉しいです



 ひんやりと冷気が漂ってくる窓に、左から右に指で線を引く。結露した窓に「一」の文字が書かれて、そこから雫が流れ落ちる。
 窓にできた指一本分のすき間から覗くと、外はいつのまにか雪がちらついてた。
 少し火照った顔を窓に近づけ、そのまま雪の舞う高速道路を見ていた。すうっと顔の熱が窓の向こうに吸い取られていく。
 外は冷え切った黒い金属のように固まって見える。左半身の体温が少し下がってきたことを感じてカーテンを閉めた。
 もうひと眠りする時間があることを確認して、左側の寒さを噛みしめるようにゆっくりと目を閉じた。

 今は名古屋から新潟へ、夜行の高速バスで向かう途中だ。時間は午前四時を少し回ったところだった。定刻通りなら長岡の手前。上越のあたりだろうか。
 母と暮らす弟から、母が入院したという連絡が入ったのが、昨日の昼。以前喉に見つかった腫瘍を詳しく検査したところ、悪性の甲状腺がんだと診断されたらしい。そして、昨日入院した。
 甲状腺がんは進行が遅く、痛みがほとんどない。見つかったのは運が良かった。念のため、もう一度検査をしてから手術をするそうだ。

 

 ほぼ定刻通りにバスは新潟駅に到着した。
 風が強い、そして冷たい。同じ十二月の上旬でも、日本海側と太平洋側では、気候がまったく別物だった。日本海側を裏日本と呼ぶらしいが、身体全体がそれを肯定している。
 まだ暗い空を、ぶ厚い雲が足早にキリなく流れていく。私はマンガ喫茶で時間を潰してから、病院に向かうことにした。

 

「わざわざありがとね」
 久しぶりに聞く母の声は、塗装が剥げて錆が浮いた鉄の棒をこすり合わせたような、変に高くザラついた声だった。
 窓から差し込む日差しを眩しそうにしている母は、心なしか少し瘦せている。私は、そんな母の姿をあまり見ないようにしていた。
「まぁ、パソコンとネットさえあれば、どこでも仕事はできるからね」
「あんた、会社勤めを辞めて自分で仕事を始めたって言うけど、ちゃんとやっていけてるの」
「まあ、なんとかなってるよ」
 明け方の空を覆っていた雲は、切れ目だらけになってはいるが、やはり足早に通り過ぎていく。
「あんたさ、ちょっとカーテン閉めてもらえる?」
「あぁ、いいよ。明け方はもっとどんよりしていたのに、いつの間にか晴れ間が見えてきたね」
 私は母の方を見ないようにしながら、カーテンを閉める。弱っている母を見るのは、罪悪感のようなものを感じる。
「声、思ったよりひどいね」
「仕方ないよ、そういう病気なんだから」
 その後も短いやり取りをして、私は病室を出た。
 ささくれた鉄の棒の声は、耳にざわっとした違和感だけ残して消えていった。
 声が変わったこと、元の声をすでにちゃんと思い出せないことで、母の存在そのものが変わったり、消えてしまいそうな気がしてくる。
 私は、もう声が思い出すことが難しくなった父のことを考えながら、病院のバス停に向かった。日差しは出てきたが、風が強いせいか、少しも暖かくはなかった。ちょうど良いタイミングでバスがロータリーに入ってくるのが見えた。キャリーケースをガラガラと鳴らして、停まったばかりのバスに駆け寄る。思っていたより混んでいるバスに乗ると、ようやく一息つけたような気がした。

 

 バス停から歩いて五分の実家は、前と変わっていないのに、懐かしさをまとった分、周りの家より温かそうに見えた。
 玄関に荷物を置いたまま、まずは仏壇に手を合わせる。ゆっくりと目を開けると私の祖父母の写真、その隣に置かれた父の写真が目に入る。
 小学校に上がる前に死んだ祖父母の声は、もう忘れている。いや、祖父の声は忘れようと努力した。痛み止めのモルヒネせいで幻覚を見た祖父が、半狂乱に私の名を叫ぶ声は、まだじっとりと頭蓋の裏側に張り付いて、時折夢の中に響く。仕方ないとはいえ、最後に見た別人のように喚く祖父は、怖かった。
 父の声は、まだなんとか思い出せるが、祖母の声は思い出せない。写真という依り代がないと、祖母は私の中で存在そのものが不確かになりつつある。
 それは、父の存在がギリギリになってきているとも言える。

 

 ろうそくの火を消して、玄関に置きっぱなしの荷物を取りに行くと、ちょうど弟が帰ってきたところだった。
「おかえり」
「ただいま、ん?あー、そうか兄ちゃん今日来るんだったね。おかえり」「ただいま」
 お互いがお互いに「おかえり」と「ただいま」を言い合う挨拶をすると、会話がなくなった。
 元々私はあまり話すほうではないし、弟とは年が離れているので、遊べる年齢になる頃には進学で家を離れていたから、どう接していいか未だに迷う。
 いつもは母が仲介だったが、母がいない実家で弟とどう過ごせばいいのか。
 少し急な階段に弟の足音が吸い込まれていくのを、耳で追う。
 人間はなんて音が多い動物なんだ。

 

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