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声についての話

僭越ながら、私の童話絵本が完全受注生産で予約受付中である。

声の仕事をしている友人が、この作品の朗読をしてくれて、その音源を聴かせてもらった。

感無量。
私は登場人物の声までは、あまりイメージしていなかった。それはこの作品に限った話ではない。
そのため、私の頭の中で響く登場人物たちは、誰にも似ていなくて誰の声にも聞こえる、とても中途半端な声をしていた。
それが、実際プロの人に読んでもらって、登場人物たちがとても生き生きしてみえるようになった。

藤子・F・不二雄氏は、大山のぶ代さんがドラえもんの声をあてた際に、
「ドラえもんって、こんな声をしていたんですね」
と言ったそうだ。
同じ感想を持った。
主人公の男の子は、こんな声で、こんな風に話すんだなー、と感激してしまった。
素晴らしい友人のおかげで、素晴らしい作品に育ててもらっているような気がする。


ところで、アニメやマンガに声を入れることを、『命を吹き込む』と表現することがある。
今回は、まさに『命を吹き込んで』もらったような体験をして、本当にすごいなと感動した。
その一方で、声を入れる前のアレは、一体何だったのだろう。

朗読を聴いてみて、次元が上がったというか立体感が出てきたような感覚になった。
折しもちょうど小川洋子『密やかな結晶』を読んだところだったので、特にそう感じたのかもしれない。

声が出せない、声帯を震わせることができないというのは、想像以上に存在を希薄に、そして均質にしてしまうような気がしてならない。
病気や障がいでそうなってしまっている人がそうだとは言わないけれど。

顔や雰囲気、仕草、それらはすべて視覚情報だ。
亡くなった人について、写真しか残ってないケースと、音声しか残ってないケースがあったとする。写真しか残ってない人は徐々に忘れていくのに、声が残っている人は生前の姿が、ありありと目に浮かぶ。
私の父はすでに他界しているが、声を残しておけばよかったと思う。

声自体は、たかだか空気の振動である。
その振動によって、存在感がより強く立ち上がってくる。
その振動が、誰かの存在を立体的に強く訴えてくる。

あなたが声を聞きたい相手は誰だろう。
私が声を聞きたい相手は・・・・。



七緒よう

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