渇き
私は、このあと死ぬつもりでいた。
溜池山王駅で地下鉄を降りて、六本木通りを赤坂アークヒルズに向かって歩いているが、ちゃんと目的地を知っているわけではなかった。おそらく同じ目的地だろうという人にあたりをつけて、その後ろを歩いているだけだった。
前を歩く薄い紫色のワンピースを着た女性が、歩道から赤坂アークヒルズの方へ曲がっていく。そのままついていくと、エスカレーターで上階に行き、さらに少し歩くと巨人のバーベルが半分地面に埋まったようなオブジェが見えてきた。
その先に、唐突にホールの入り口が現れた。入り口の上には、控えめに「SUNTORY HALL」と書かれている。
前の女性と目的地が一緒で良かった。
右に見える大きな屋根の下では、フリーマーケットが開催されているようだ。
もう売るものも、何かを買えるお金もない。友人も、今はいない。
布団と最低限の服が散らばる部屋を思い返す。それ以外のものは、もう食材すらない。
賑わいの中から聞こえてくる店主たちとお客さんとのアナログなやりとりが、少しうらやましくなる。
もう死ぬ以外に、やりたいことなんてないと思っていた。
それなのに、芸術にふれたい。しかも、絵画や彫刻のような静的な芸術ではなく、動的なライブパフォーマンス芸術にふれたいという欲求が湧いた。少しだけ死期を延ばした。
そんなときに、気まぐれに一枚だけ買ったスクラッチ宝くじで、一万円当たった。
滞納している電気とガス料金の支払いではなく、私はその一万円をオーケストラのコンサートチケット代に使った。
宝くじ売り場からの帰り道に寄ったコンビニで、たまたま目に入ったチラシが、そのコンサートのものだった。自宅から会場の往復交通費と発券手数料込みのチケット代でちょうど一万円になる。
なぜか芸術にふれたいという欲求が高まり、直後に臨時収入があり、そしてちょうど都合の良い日程のコンサートを知った。
これは何かの天啓としか思えなかった。
ネロが死ぬ前にパトラッシュと一緒に、ルーベンスの絵を見ることができたように、私にもそういうものがやってきたと悟った。
サントリーホールで聴く、ピアノ協奏曲と交響曲。これが私にとってのルーベンスになった。
ホールに入ると、ピアノとコントラバスとティンパニがそれぞれチューニングしている。
ピアノを調律しているパンツスーツの女性が、本番の演奏者でないことは、初めてコンサートというものに来た私にもすぐに分かった。なんというか、地味すぎる。
コントラバスとティンパニをチューニングしているのは、演奏者本人だろう。
彼らは、緊張する気持ちを他のパートより一足早く落ち着けることができるのだろうか。それとも、一足早く緊張のスイッチが入るのだろうか。
蓮みたいな形をした照明から降り注ぐ光が、コントラバスのニスに反射している。照明と期待感に膨らむ客席の熱で、弦が少しゆるむのかもしれない。
しばらくすると、木管楽器が出てきた。開演予定時刻まであと十分ほどだ。
トゥロロロロと上昇と下降を繰り返して指と唇のウォーミングアップをし始めた。
気づけばコントラバスとティンパニは、いつの間にかはけていた。
開演3分前のアナウンスが入る。
誰もいなくなったステージが、演奏者たちの登場を期待して一段と輝く。
一呼吸置くような間がホールを一瞬包んだのちに、さざ波のように広がる拍手とともに楽団員がぞろぞろと出てきた。
続いてコンサートマスター、ピアニスト、指揮者と出てくる。徐々に拍手が大きくなる。
管楽器、弦楽器の順でチューニングが終わると、ゆっくりと客席の照明が絞られる。
無音になった刹那、私は生きていることを強烈に実感した。
直後、静かにピアノの和音がクレッシェンドしていくにつれて、渇きと飢えが満たされる気分になる。乾いた血管に血が流れる。
浮島のように光が溢れるステージに、音がキラキラと踊っている。
ピアノの屋根に、響板の端で弾むダンパーが映っている。
死ぬ前に初めて聴きにきたクラシックのコンサートが、まさかこんなに生き生きとしたものだとは思わなかった。死を渇望していた体に、生が染みわたる。違和感と心地よさが揺らぐ。
ピアノ協奏曲が終わり、ピアニストがアンコールに一曲弾いてから休憩になった。
予想に反して、飽きはなかった。むしろ、もっと音楽を浴びたいと願っていた。
人はパンのみにて生きるにあらずと言ったのは、ルーベンスの絵にも描かれたキリストだったか。
美しいものへの渇望が私を生かしている。その感覚を意外なほどすんなりと、私は受け容れていた。それどころか、人間には美に対して、走美性のようなものがあるのではないかとすら思い始めている。
休憩時間は、あっという間に過ぎていった。
交響曲の第四楽章。フィナーレに向けて最高潮に盛り上がっている。
もうすぐこの時間が終わってしまうことが、何より切ない。
だけど、この盛り上がりは死の運命への勝利を祝うものだ。
「ほら、この世にはまだまだ美しいものがたくさんあるぞ、もっと味わってからこい」
チャイコフスキーにそう言われているような気がする。
明日も一年後も美しいものを見るために、臓器を売ってでも生きよう。
来るときに抱いていた死への渇望は、生への強烈な渇望へと変わっていた。ルーベンスはネロに死の安らぎを与えたかもしれないが、チャイコフスキーとラフマニノフは私に生への渇きを与えた。
公演が終わり、ロビーはごった返している。人波は一方通行にスムーズに動いて、私もゆっくりと出口に運ばれていく。
外に出ると、角度がついた日差しが広場を暖かく包んでいる。
まさに啓示のような時間だった、と私は反芻するように、直近二時間を振り返る。
電気もガスも止まった部屋に向かう帰り道が、まさか来るとき以上に清々しいとは思わなかった。
来るときにきた道を溜池山王駅に向かっていく。遠くでスポーツカーの大きなエンジン音が聞こえる。その音すらも今は愛おしい。
ドンという音がしたような気がした。ティンパニの音だろうか。
それより、のぼせるような気分が抜けず、身体が少し重いような感覚がする。
視界が赤くぼやける。
身体が、動かない。
赤く染まる世界は、鉄の匂いがする。
それは、それで美しいと思った。
新宿駅近くのラーメン屋では、テレビで夕方のニュース番組が流れている。
「本日午後4時ごろ、溜池山王駅近くの交差点に乗用車が突っ込み、歩道にいた男女五人が死傷する事故がありました。運転手の男からは、アルコールが検知されており……」
七緒よう