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美花凋落

 後朝、菊乃は政之助を大門まで送り届けていた。
政之助さん、どうぞ又来ておくんなんし……と甘い言葉と腕を絡められ、政之助は満足気であった。
「なあ、お菊。お前、こんな所――颯々と出て行っちまいたくねエかい」
こんな所、で妓楼を仰ぎ見、政之助は尋ねた。
「何を……おっしゃいんす、政之助さん。わっちは籠の中の鳥――外を夢見るなんて、疾うの昔に諦めてござりんす」
眼を伏せ、本の少し力ない笑顔を向ける。其の菊乃の眼端は、昇り行く朝陽を反射して煌き、政之助の庇護欲を誘った。心做しか、紅に彩られた脣が小刻みに震えている。
どうか――どうか又、来ておくんなんし――。
 此の瞬間、政之助は誓った。例え何が遭っても、おれはお菊を身請けする――と。
固く、誓ったのであった。
憐れにも。


 政之助の背中が見返り柳の奥へと消えて行った事を確認し、菊乃は自身の座敷へと向き直った。朝四ツまで余り無い。急ぎもう一眠りしなければ、身体が壊れてしまう――。
座敷に戻ると、寝具は片付けられていた。寝室には別の寝具が敷いてある。勿論、そうしたのは菊乃ではない。
「お滝」
 菊乃が静かにその名を口にすると、襖から怖ず怖ずと顔を出す女性がある。
「済みません、姉さん。準備に手間取ってしまいました」
「お滝、何を謝る必要があるのです……お前さんはまだ寝ている時間でしょうに」
 一歩、菊乃が滝へと歩を進める。
「し……然し」
 菊乃のしなやかな腕が、滝の腰へと絡められる。
「態々御苦労様――唯、寝具を敷きに来て戻る訳では無いでしょう?」
「え……否、姉さんは疲れていらっしゃ――」
 言の葉、ぶつり。
「――其れなら、私を癒して頂戴」
 抱き寄せられ仰け反る滝の首筋に、菊乃のびらびら簪が触れた。
 後朝の後、月下美人が花開く。


「お菊。一寸来なさい」
 椿の呼出に、菊乃は筆を置いた。椿がこうして菊乃を呼び付ける時は、決まって他の遊女には内緒の叱責だ。椿とはもう数年の付き合いである、何と無く分かる様になっていた。
「はい、姉さん」
「あんた、今朝もお滝を呼び付けたろう」
 矢張り。其の事か。
「気付いていらっしゃいましたか」
 勿論、と椿は菊乃の眼を見据えた。
「お滝は良いさ、問題はお菊、あんただよ」
「私――ですか」
「そう。相当疲れているでしょう……お菊。今も御覧、隈が」
 ちらりと鏡を見遣り、椿は溜息をついた。
「兎に角、無茶はしない様におし――あんたの其の様子があの人に見付かったら、私は何も出来やしないよ」
「……はい。姉さん。内密にして下さって感謝しています」
 菊乃は、心から頭を下げた。あの方に、楼主に知れたら唯では済まない事は、菊乃も滝も重々承知している。
「其れは気にしない様に言っているでしょう。本当はあんた達の自由にさせてあげたいんだよ。でも――あの人は少しばかり気性が荒いからね」
 精々気を付けるのですよ、と言い残し、椿は楼主の下へと戻っていった。
 椿には、菊乃が振袖新造であった頃から非常にお世話になっている。期待を裏切る訳にはいかない。
 菊乃は再び筆を執り、紙に政之助への偽言を連ねる。菊乃の頭に在るのは、政之助の言葉であった。
――お菊、こんな所、颯々と出て行っちまいたくねエかい。
「政之助さん……主さんには、感謝しているでありんす。唯――」
 菊乃に取って、此の場所は辛いだけの場所ではないのだ。滝が居て、椿が居て、自分を慕ってくれる娘達が居て。他に代える事等出来ない、唯一の居場所であるのだ。

(こんな贅沢な話、断れば非難の的となるだろう)

 腹の奥がじんわりと痛む。もう其様時期であっただろうか――。否、此の悩みに因るのだろうか。
 後で時間を見付けて椿と滝を呼び出そう――。屹度相談したとて結論は「身請けされる」事に落ち着くのだろうが、何も話さないで決めてしまうよりは良いと考えたのだ。
 深く、肺の中を空にする様に――大きく息を吐く。
 幼い頃に見た夢は、何時の間にか色褪せ、凋落していた。


 然し、滝と椿と――そして菊乃。此の三人が揃う事無く早数日の時が経過していた。
 滝は菊乃の身の周りの世話をして呉れている為話そうと思えば何時でも話せるのだが、椿はとなると矢張り内儀であれば忙しいのだろう、あの日以降全くと言って良い程話が出来ていない。
「姉さん」
 滝に呼ばれ、我に返る。暫し考えに耽っていた様だ。
「何です」
「姉さん……矢張り疲れが溜まっているのでは。どんなに呼び掛けても心此処に在らずといった様子でいらっしゃいますから」
 菊乃は思わず苦笑した。椿のみならず、滝に迄心配されていたのか。
「それは、心配をかけました。済まないね、然し大丈夫よ、私が何年此処に居ると思っているんだい。もう――」
「姉さん。何か、心に抱えてる事が在るんじゃありませんか」
 滝が、菊乃の言葉を遮った。こんな事は初めてである。
「お滝……何か、って――」
「いえ、ずっと――本当にずうっと、何か考え込んでらっしゃるから。――真坂」
「違います。其処は安心おし。確と……来ていたから」
 そう伝えると、滝は安心したように眼に涙を浮かべた。
 矢張り、此の娘は――お滝は迚も優しい。
「然し、そうだね。先に、お滝には話しておきましょうか」
 隠しても無駄な様である。
 滝は、涙を浮かべた儘の眼を真ん丸にして此方を見ている。
「話す……?姉さん、それって」
 菊乃は、不安げな滝をふわりと抱き締めた。
「そう……屹度、今お前が想像した通り。私のおゆかり様の――政之助様が、いらっしゃるでしょう。政之助様から、落籍の御提案を戴きました」
 滝の、息を飲む音が響いた。菊乃は続ける。
「本来ならば、喜ばしい事……然し」
「姉さん」
「……お滝?」
「姉さん――本当は、この様な事を言ってしまえば姉さんを困らせてしまうのは分っています……分っていますが、私――ッ」
「お滝」
「嫌ッ――嫌です。姉さんが此処を出て行ってしまうなんて――我儘である事は百も承知です。唯、唯私は姉さんと離れたくない」
 滝の眼からぼろぼろと涙が溢れる。
 滝は、何時も自分の感情を押し殺して他人への気遣いをする娘である。その滝が。
 こんなにも、自分を想って呉れていたのか。菊乃の眼にも、涙が潤々と浮かんだ。
「お滝――泣かないで。政之助様も善い方ですから。理由を拵えて丁重に御断りすれば、屹度分かって下さるでしょう」
「姉さん、其れでは」
「ええ。私だって、お滝を置いて出て行くなんてしたくないわ」
 ひし、と滝は菊乃に縋り付いた。
菊乃は、子供の様に泣きじゃくる滝の頭をそっと撫でる。
「お前はそそっかしいからね……私が傍で見て遣らずに誰が見て遣るんだい」
「もう……姉さん、何時までも私を子供扱いして」
「ほら、お滝。顔をお上げ」
 そっと互いの脣が触れる。
 菊乃と滝、其の二輪の花は、間違いなく倖せであった。


 翌朝、菊乃は椿に呼び出された。
 滝が、椿と会えば話を通して置くと言って呉れていたので其の事だろうと椿の部屋に入る。と同時に、飛んで来たのは叫声であった。
「あんた、身請けの話断るだなんて本気かい」
「姉さん。驚かれるのは御尤もで御座います。然し――」
「お滝に訊いたよ――其の気持ちは良く分る。然しお菊、此の様な好機は二度と無いかも知れないんだよ。解っているのかい?」
「好機――」
「そう、遊郭から抜け出し、自由になれる機会」
 菊乃は、暫く黙り込んだ。悩んでいると謂うよりも、言葉を探している様に眼が右下方を彷徨っている。
 そして、少しの間を置いて、菊は怖ず怖ずと謂った様子で口を開いた。
「御言葉ですが、姉さん。私は此処での暮らしを厭だとは、今は微塵も思っていないのです。椿姉さんが居て、お滝が居て――。辛いことも厖大に在りますが、私に取っては此処が私の居場所なのです」
「お菊――」
「だから、姉さん。何卒此処に残る事を許して下さいませんか」
 そう言った菊乃の眼には、迷いなど一切無いように――少なくとも椿には――そう見えた。
 菊乃は、昔から人の顔色を伺い乍ら行動をする娘であった。故に世渡り上手であったが、反面、自身の気持ちを他人に伝える事は殆ど無かったと言って良い。そんな菊乃が、椿の眼を確と見据えて己の要望を伝えている。
「其れ程迄に、本気――という事かい」
「はい」
 力強い点頭である。
「其れ成らば、私が兎や角言う必要は無いね。自由におし。――其れにね、お菊、あんたがまだ此処に残るって謂うのは私に取っても嬉しい事だから……ね」
何せ、お菊はすっかり妹の様なものだからね、と照れた様に椿は言った。
 菊乃の表情が明るく咲き、椿も笑い返す。
 斯うして、菊乃は遊郭に残ると謂う結論に至ったのである。少なくとも、彼女達の中では。然し、身請けとは遊女の意思のみで如何にか成るものではない。勿論、彼女達も其れは百も承知であったが――。

御構い無しに、其れは起こった。




桜は散るもの……

菊は「舞う」もの

紫陽花は「獅噛み付き」

椿は「落ちる」ものでありんす。


婉美な花々の凋落の様、篤と御覧あれ。






 其の報は、遊郭を揺らがす衝撃であった。
 陽が昇り始め、空が白んできた刻である。滝が、異常な迄に取り乱し、泣き乍ら椿の部屋に来た。椿は、要件を訊くよりも滝を落ち着かせる方が先だと滝の手を取った。然し、其の手は滝の言葉を訊いて直ぐに手放された。

――姉さんが、菊姉さんが、座敷で死んでいる。

滝は絞り出す様にそう言うと其の場に崩れ落ち、愈々阿鼻叫喚の様と化す。

菊?菊って、あの菊?姉さんが死んでる?死ぬって死ぬ、死んだ誰が?死ぬ殺された殺した誰が、滝が私が菊が死んだなぜ?死ぬ?自分で?誰かに?殺し?死んだ菊が死ぬ死んだ死んだ菊が、お菊が死んだ……?

 思考が微塵も纏まらぬ儘、椿は菊乃の座敷へ走った。着物の間を縫って皮膚を撫ぜる風が異様に冷たく感じる。
何故菊乃が死んだというのだ。此れからも三人で笑い乍ら過ごして生けると思っていたのに。折角身請けの話迄断り――
「身請け……」
菊乃の昨夜の客は、政之助であった。菊乃に身請けの話を持ってきた客。
――真坂。
 厭な思考が前頭葉を黒く染め、次第に確信に変わる。
政之助は、菊乃の話を訊く限りでは決して野暮では無かった。然し、少々思い込みの強いきらいが在る――と、菊乃は厄介げに言っていた。
 菊乃は、政之助に殺された。屹度――否、間違いない。身請けの話を断られた政之助が、衝動的に菊乃を手にかけたとしたら――。
 菊乃の座敷が見えた。椿は乱暴に戸を開け、そして、寝具に横たわる菊を見付けた。
「菊、菊」
 声は震え、掠れ、殆ど音に成らない。
 だから、聞こえていないだけだと信じたかった。
 何度名を呼ぼうと、菊乃からの返事は無い。
「お菊――」
 椿は祈る様な気持ちで、菊乃の顔を覗き込んだ。
 見開かれた眼。
 歪んだ脣。
 其の顔には、生前の美しさは微塵も無い。己が首筋に伸ばされた手には無数の痣が浮かんでいた。
何れ程の苦しみを味わったのだろうか。可哀想に――。
ぐちゃぐちゃと乱暴に掻き混ぜられた感情が、椿の脳を満たしていく。
 然し、椿の思考は、異様な程に冷静であった。否、冷静に成らねばならないと必死に悲しみを堪えていた。菊乃を守れなかった今、滝だけでも守らねばならない。椿は、菊乃のいっとうお気に入りであった着物を抱え、自身の部屋へと戻った。
この騒ぎを楼主が聞き付ければ、何故此の様な事が起こったか説明をしなければならない。楼主も馬鹿ではない、菊乃と滝の関係には薄々気が付いていたであろうから、そうなると、己の遊女を亡き者にし、騒ぎを起こした罰は何処へ向かうか、誰が受けるのか。

間違いなく、滝である。

未だ遊女ではなく、客も取っていない滝は如何様な罰を受けるのか――其れは椿にも分らない。然し、楼主は事と場合に寄れば、遊女の命さえも奪う事が――暗黙の了解として――許されている。成らば。

「お滝」

滝は、未だ踞って泣いていた。然し、多少の冷静さは取り戻していた様で、椿の呼び掛けに怖ず怖ずと振り向いた。
「お滝。此処から逃げましょう」
「椿……姉さん」
可哀想な程に戸惑っている。然し今は時間が無い。
「良いから……兎に角、私に付いて来なさい。ほら、此れを持って」
「此れ……は、姉さんの――」
「其れはあの娘の形見だから、絶対に放すんじゃないよ――。さ、行くよ」
 椿は、滝の返事も聞かずに走り出した。一瞬遅れ、滝も後を追う。眼に溜めていた涙をぼろぼろと溢し、其れでも確と付いて来ていた。
 そろそろ、遊女達が起きて来る頃合である。否、先程の騒ぎで既に起きた者も居るだろう。楼主に情報が行くのも時間の問題である。急がなければ。足が非常に遅く感じる。遠い。大門はこんなにも遠かっただろうか。
「椿姉さん、逃げるって、何処に……真坂」
 滝も何処に向かっているか分かったのだろう、明らかな狼狽が声に表れている。
 大門が視界に入る。滝に返事をする時間さえ惜しかった。
「椿姉さん――」
 大門の入り口で、椿は足を止めた。呼吸は大袈裟な程に乱れ、心の臓が叫声を上げている。
「……お滝」
 椿が振り返ると同時に滝も立ち止まり、息を整えようと胸に手を当てた。
「滝、あんたは外に、逃げなさい。此の事を知ったらあの人は……屹度あんたを殺そうとする。……兎に角此処から逃げなさい、そして、人を、男を利用して生きなさい。……お滝、あんたなら、出来る筈だから」
「然し、然し……監視が」
 滝の眼が左右に揺れる。御尤もな心配であるが、其れに構っている時間は無かった。
「良いから!監視には私が話をするから。大丈夫、私だって遊女上がりとは言え、内儀なんだよ。時間稼ぎ位出来るさ。さ、早くお行き」
「其れでは、椿姉さんは……?姉さんは逃げられないではありませんか……!」
「良い。良いから。お願いだから、早く行って頂戴……」
 此処で二人揃って監視に捕まれば、全て水泡に帰す。椿は、無理矢理滝を大門の外へ追い遣った。
「こんな別れで御免ね……振り返ってはいけないよ。兎に角逃げる事だけ考えなさい」
「椿姉さん……」
 意を決し、滝は走り出した。椿は、其の後ろ姿を眺め、菊と滝、そして椿の三人で共に過ごした妓楼を振り返り、目元を拭った。

――どうかお滝だけでも、生き延びて……平凡に歳を重ねられます様に。

 椿の肩に、監視の手が伸びる。



 
 滝は、只管に走った。既に心の臓は限界を訴え、舌と喉が張り付きそうであった。其れでも、走った。椿の言う通りに、逃げる事だけを考えた。
 此れからの事など、何も考えていない。遊郭から逃げ出したとて、逃げ切れる可能性は殆ど零に等しい。其の様な事は、滝も椿も良く良く分っていた。然し、万が一にも生き延びる事が出来る道が在るとしたら――その一縷の望みに、滝も椿も命を賭けた。故に、立ち止まってはいけない。絶対に逃げ切らねばならない――。
 
然れど。

自分一人が生き残ったとて、何に成る?

 
 間違い無く、菊乃と滝は愛し合っていた。端から見れば歪であっただろう、醜悪であっただろう――其れでも、二人の愛は確かであった。粗悪な環境であっても、二輪の花は精一杯咲いていた。
然し、最愛の菊乃は死んでしまった。共に過ごそうと約束をしたというのに、滝を置いて逝ってしまった。
 立ち止まり、胸に抱えた菊乃の着物に顔を埋める。
「……姉さん」
乱れた呼気の合間、微かに菊乃の匂いがする。
「どうして――」
滝の悲痛な呼び掛けに応える人はもう居らず、唯風に揺れる木々の囁きが響くのみであった。
 滝は、その場にしゃがみこんだ。
 もう、菊乃は何処にも居ない。滝を逃がして呉れた椿だって、無事であるはずがない。

誰も居ない。自分にはもう、何も無い。

 滝は、菊乃の形見に獅噛み付く様に取り縋り、静かに泣いた。冷たく吹く風に、菊乃の着物の袖がはたはたと舞う。

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