2024/08/10の早くに目が覚めて

夢は終わりに自分が死ぬことで目を覚ました。

いつの間にかタオルケットが剥がれていて、寝汗した足が夜気にすっかり冷えていた。夢は前にも見たことがあった。

毒を打たれて死ぬのだ。私たちは迫害されていて、私たちを迫害するものが、毒を。私の周りには顔のない私たちの数人が同じように苦しみ始めている。毒は神経毒で、私は注射をされたはずなのに必死で口を漱いでいる。何度水を含んで、口腔全体に行き渡らせて、吐き出しても、もう麻痺し始めているから必要以上に冷たい。私に毒を打ちこんだひとがたの影が笑っている。私は笑われて悔しくなってそれに復讐しようと掴みかかるが、それはもう笑いながら死んでいるし、私も死ぬ。世界が渦巻く。それが夢であることを当然に知りながら目覚める。そして、最近全く見返していなかったバリー・ジェンキンス『ムーンライト』について、またひとつ得心がいった。


フアンのことだ。フアンはなんだかやさしい呪いであるなあ、と、ぼんやり思って止まってしまっていたのだが、あれは父祖だ、想像上の父祖。初めから脚本にそう書いてあるし、そう読んでいたつもりなのだが、馬鹿らしい、そう読んでいたつもりだった。

月夜のエピソードは複雑だ。青白い月光が肌をスクリーンにする。その青さと下地の黒さ。自分の肌が下地になる。しかし今、老婆に自分は青く見えていて、それが名になることの何が悪いのか。何が悪いのか、どこで悪くなるのか、どうだろう、と問いかけてこの映画は終わるはずで、エピソードは解決されないまま長く長く未来を貫く。当然で、簡単に解決される訳がない寓話である。

その寓話を強引に解決しようとしたのがフアンだったはずだ。フアンは「他人に決めさせるな」という。その青さを拒否しろ。お前は。

私は、フアンは「自分のことは自分で決めろ」ただ、お前はどうあれ黒人だ、と言っているはずだと元々思っていて、それなのに父祖というアイデアを持たなかったのだから、分からない。フアンは黒人の父としてシャイローンを包み込む。お前は黒人だ。泳ぎ方を教えてくれる。そして、2章の前に死ぬ。

2章は、だから、2章の悲しみは、今私にくっきりと現れる。孤独だ。最初からそう書いてある? 確かにどうして見落とすことができたのか。民族、家族、性、自分の膜となるべきものが全て破れてしまっても学校に行かなければならないのが2章だ。民族はフアン、家族にはポーラ、性にはケヴィンがひとまず対応するが、フアンは家族でもあり、男性でもある。

書き添えるなら、それらは、全て外側で破れ、シャイローンは内側でそれを見た。壊れている世界のひと一人椅子で殴ることの何がいけないか。無論全ていけないのだ。世界はもとより壊れている。だから何も、なんの理由にもならない(椅子が座るものから殴るものに書き換えられたことは、どうか。凭れかかる身体を倒し、引き離すものに。三島由紀夫と芥正彦の議論をここで思い出す。関係があるだろうか)。

3章でその破れ目をシャイローンは見事に繕って復活する。黒人の男性。そして縫ったはずの破れ目がほつれ始める。3章は、ポーラとの和解も無論大きいが、ケヴィンとのシーン。「俺に触れたのはお前だけ」。そう、世界はもとより壊れていて、膜はとっくに破けている、にもかかわらずその先へ通りぬける腕のなんと少ないことか。腕は破れた膜に狙いを定める他にない。しかし、時折膜を透過して差し込んでくる。その腕は選べない。選べない? どうだろう。ポーラの腕は通り抜けることができなかった。和解に抱き合った時でさえ。


テレサは?


冴えてしまって眠れない部屋にカーテンの隙間から光が漏れている。電柱の灯りである。光は壁に跳ね返り部屋全体がうっすらと眩しい。肌がそれを弾く。開け放てば、みな、私に触れ得るか。しかしどうやって?

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