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実家の猫のこと

先日、実家の猫が天寿をまっとうした。もともと実家には3匹の猫がいたが、猫特有の病気の影響などもあり、順番にこの世を去り、ついに3匹目の猫も鬼籍に入ったということである。この猫はもともと線が細く病弱な体質であったが、加齢により目が見えなくなってからは逆にたくましくなり、体もややふっくらした。若い頃は擦り寄ることもしないクールな性格だったけれど、ばあちゃん猫になってからはたくさん人間に甘えるようになった。そうして、3匹の中で一番最初に亡くなってしまうかと思われていた彼女が一番長生きをし、最後はものを食べなくなり徐々に痩せ細ったものの、最期は穏やかに逝ったようである。

遡ってヒガシノ家が初めて猫を迎えたのは、わたしが高校生の頃のことである。いろいろな出来事とタイミングが重なり、当時大型犬のゴールデンレトリーバーがいた我が家に、順番に猫たちがやってきた。最初は家族全員で猫を迎えたけれど、そのうち姉たちも自立する年頃になり、家を出ていく者もいた。だから、3人姉妹の中で猫と過ごした時間が一番長いのは、末っ子のわたしなのだけれど、母はそれ以上に猫と多くの時間を過ごしてきた。
母は、猫が病気をすれば病院に連れて行って根気よく治療したし、目が見えなくなれば、頼りなく家中を徘徊する猫が食事をしやすいようにレイアウトを変更したり、粗相をしてもいいような工夫をしたりと、いつも細やかな配慮を欠かさなかった。

母はいわゆる猫にくびったけな”猫バカ”タイプではない。しかし、それは猫を大切にしていなかったということではない。母は3匹の猫それぞれの個性を尊重し、適切な距離で丁寧にお世話をしていた。そして彼らをこの世から送り出す最後まで、その姿勢は変わらなかった。

当たり前だけれど、こうして迎え入れた動物の最後を看取るのは、どうしても親の役割になってしまうことが多い。我々子どもたちは、猫との楽しい思い出や時間をたくさんもらってきた。しかしその陰には、猫との辛く悲しい時間を過ごした母の存在があるのだ。それを忘れてはならないと思った。

現在、わたしの家には2匹の猫がいる。実家の猫が年を取っていく様子を見ながら、いずれ自分の猫も同じように年を取っていくのだと、心の奥底で自覚をしていた。けれど最後に向けて明確な「覚悟」ができているかというと、それは自信が持てない。それでも、猫と暮らすことを選んだのは自分であるから、その時に向けて日々生きていくのだ。

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