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文体の悪魔
二十歳前後に読んだ文学作品、ラディゲの「肉体の悪魔」を57歳になって読み直した。
最初に読んだ頃には無邪気に夢中になって一気読みしたように思う。
主にストーリーを軸に読んでいたからであろう。勿論、文体にも魅了されていたのであろうが、今読み返すと、とにかく一行読み進める度につっかえてしまう。
主因はその豊かな比喩表現にあるのかもしれない。
比喩表現は、全く別の事例の中に同一の構造を見出して表現に用いることで、表現しようとする事物を立体的に描き出すことができる訳だが、ショーペンハウアー「読書について」に指摘されるまでもなく、それは習熟した技術というより、日常より物事を立体的に観察、整理する習慣のある天才の成せる技なのだと思う。
20歳で生涯を終えたラディゲが「肉体の悪魔」を書き上げたのは16歳から17歳頃だと言われている。三島由紀夫がラディゲに魅了されたのは、その卓越した文体にあったのではないだろうか。
一つ比喩表現が美しく描かれるたびに気が散ってしまうのだ。
57歳の自分は、それなりに積み上げてきた経験から、そうした比喩表現が使われる度に、用いられた比喩に対して、自らの経験に思いを馳せてしまい、読み進めることを中断せざるを得なくなる。
例を挙げると、「雄鶏が時をつくっていたが、その数がだんだん増えていった」との表現から始まる一文から、時間の経過のみならず、体感するスピード感の変化を含めた、時間の経過具合、ニュアンスが表現されている。
こんな表現一つで、僕は自分のこれまでの経験の中から身に覚えのある、雄鶏に対する知識、状況によって変化する時間の体感具合、を思い起こしてしまい、思考が横道に逸れていってしまう。無論のその繰り返しによって、物事を立体的に捉える能力がさらに肉付けされていっているように感じられて、読書体験の更なる深みを再認識させられ、代え難い幸福を体験できるのだが。
恐らくは、用いられた比喩のニュアンスをただ感じ取りながら夢中になって読み進めていた20歳の頃の読み方の方が正しい姿勢だろう。
若く、未熟であったが故に、正しく作品に向き合えた。
そうすると、歳をとるということは、感受性が鈍るのではなくて、様々な概念を取り込んできたことによって、率直(無防備)に作品を吸収することが難しくなるということなのかも知れない。57歳の今ラディゲを読む事によって得られる幸福感には、20歳に読んで受けた種類の衝撃はないように思う。