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彩夏40歳


第1章: 静寂の酒場

夜の風が肌に冷たく触れる季節。都会の喧騒を離れた小さな通りに佇む居酒屋「かぜよし」は、灯りが控えめにともり、街の雑踏から切り離されたような静寂が漂っていた。その店内には、常連の客が数人だけ座っており、誰もが口を閉じて黙々と酒を飲んでいた。ここは、何かを抱えた者が静かに酒と向き合う場所だった。

彩夏もその一人だった。彼女は窓際のカウンター席に腰を落ち着け、いつものように淡々と日本酒を注いだ。美しい黒髪が肩までかかり、その整った横顔はどこか儚げで、年齢を感じさせない透明感があった。40歳とは思えないその美貌は、時折他の客の目を引くが、彼女の周りには誰も近寄らなかった。彩夏自身が誰も寄せ付けない壁を築いているのだ。

彩夏はこの店に通い始めて何年が経ったか、もはや覚えていない。仕事帰りの夜、家に帰る前に一人酒を楽しむことが彼女の日常だった。彼女はかつて、水商売でその美貌を武器に多くの客を惹きつけてきた。夜の街で成功を手に入れたが、それと引き換えに失ったものも大きかった。特に彼女の心を蝕んでいるのは、信じていた恋人に裏切られた記憶。

彼女がこの店に通う理由は、ただひとつ。静かに、誰にも邪魔されずに自分と向き合える場所だったからだ。日本酒の透明な液体が、まるで彼女の過去を洗い流してくれるかのように、喉を滑り落ちていく。だが、過去は決して消えない。酒を飲み干しても、胸の奥にこびりついた痛みは残り続けていた。

「…もう一杯。」

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