
マンガデザイナーズラボ10周年記念❶〜企業人時代〜
どうもどうも、吉良です。
2011年10月28日に設立した、僕が代表を務める「マンガデザイナーズラボ株式会社」は、本日2021年10月28日でちょうど10周年を迎えました。
マンガデザイナーズラボ株式会社の設立のきっかけとなったのは電通時代の経験と想い、そして、現在僕が客員教授として毎週教えている大阪芸術大学の学生たちです。
この機会に、そのきっかけや設立前からこれまでの軌跡、弊社の登録商標である「マンガデザインⓇ」について数回にわけて振り返っていきます。
【きっかけ①・電通時代】
きっかけは電通時代、それも新入社員時代にまでさかのぼります。
僕はサッカーのW杯に関わる夢を仕事にするために、1981年に電通に入社しました。サッカーとの出会いやW杯に関わる仕事についてはこちらをご覧ください。
電通で僕はマンガデザインの原点になる、「グラフィックデザイン」と「マンガ」の2つに出会いました。それも偶然に。
最初の出会いは「グラフィックデザイン」でした。
1年目はクリエイティブ局に配属され、2ヶ月間のクリエイティブ研修を経てコピーライターになりました。
コピーライターはグラフィックデザインとのかかわりが深く、同じ局には同期のデザイナー、佐藤卓氏らもおり、広告ってこうやって形にしていくんだ、とクリエイティブのおもしろさを知りました。かなり高いレベルで広告デザインの重要性を学べたことは、振り返ると最大の幸運でした。
また、はじめて体験したコピーを書くという仕事を通じて、まずクライアント自体を分析し、次にクライアントの商品市場を徹底的に分析し、文献を読み、複数の考え方を発想したうえで競合クライアントについても同じように調べ、コンセプトを構築していくことを習慣化できたことが、その後の全ての仕事に繋がりました。
広告の基礎をクリエイティブ作業を通じて学べたことで、発想やコンセプトの重要性、それに繋がるプロデュースの意味を知ることができました。
2年目は営業局に配属されました。
西武百貨店やPARCOでの仕事を経験しました。その時に、1980年から西武百貨店のコピーライターをしていたのが糸井重里氏でした。クリエーターなら知らない人がいない「じぶん、新発見。」「不思議、大好き。」「おいしい生活。」等の糸井氏のコピーに基づいたすべての展開をサポートすることが僕の仕事でした。
糸井氏の、一言だけなのにすべてをまとめているコピー、小学生でもわかる言葉を使って日本中を巻き込むことができるコピーに感激するとともに、僕にはこのコピーは絶対に書けないと痛感しました。
当初の予定では、営業局を3年間経験して、またクリエイティブ試験を受けてクリエイティブ局に戻るつもりでいましたが、この経験から自分の目指すべきはコピーライターではないと確信し、プロデューサーを目指すことにしました。先輩たちにも企画力と発想力は買われていたので、そこでならトップを目指せると思ったからです。
その後、1985年に雑誌局を強く希望し、異動しました。
それは、1986年の「男女雇用機会均等法」が施行されることを受け、時代が大きく変わると未来を予想していたからです。
僕は男女の雇用が平等になり、女性が自立したらどのような時代になるかを考えました。自由になったお金をファッション・コスメ・グルメに使うと考え、当時それらの世界をターゲットを定めて発信する媒体だった雑誌を選びました。
詳しくはこちらの記事を是非ご覧ください。
雑誌局で長く担当をしていた僕の担当業種は、ファッションやコスメティックだけでなく、自動車、家電、オーディオ、食品飲料等、ありとあらゆるクライアントでした。そのため、クライアントの商品特性に応じてあらゆる雑誌と、つまり出版社とお付き合いしており、そこで「マンガ」との出会いが生まれました。
雑誌台頭(85年以降)期の広告手法には、クライアントの制作原稿を出稿する純広告と、出版社の編集部に広告制作を依頼する編集タイアップという形がありました。
編集タイアップは僕が担当している時代の主流になっており、雑誌に掲載した後にイベント、プロモーションと雑誌の領域を超えて拡大させていけるものでした。
当時の出版社の販売を支える発行部数の中心は、圧倒的に少年ジャンプや少年マガジン、少年サンデー等のコミック誌で、単行本、テレビ、映画、と今日のゲームを含めたエンターテインメントビジネスの礎を築いていました。
「マンガ」を広告に絡めることは、多くの方に見てもらうことに繋がり、非常に魅力的でした。コミック誌は表面がザラザラした用紙を使っていることもあり、見栄え等の観点から広告を直接コミック誌に掲載しようとするクライアントは少なく、マンガのキャラクターとのタイアップを広告戦略として模索する手法がほとんどでした。
しかし、実際には毎日のようにマンガとのタイアップの要望があるにもかかわらず、全く実現できませんでした。漫画家はマンガの連載で手一杯で、広告を手掛ける余裕が全くなかったからです。今の仕事をやってみてその時の状況はよく理解できるようになりました。
現在では、原作のタッチと同様のものをアシスタント等が描くことでタイアップ企画もかなり実現するようになりましたが、当時はそのような考えも仕組みもなく、タイアップを諦めるか、与えられたビジュアルでクライアントに納得していただくか(ほとんど納得いただけず大モメ)のどちらかの選択肢しかありませんでした。
当時の僕は、各方面のクライアントから希望されているタイアップ企画の案をいくらつくっても、全く実現できないことが悔しくて悔しくてたまりませんでした。
既存のマンガの1コマを使って広告をつくることはできました。しかし、広告主のためにつくるマンガの広告を実現することを、電通にいる間に達成することはできませんでした。ただ、この想いとこの想いを実現した時の可能性を感じていたからこそ将来のマンガデザイナーズラボ設立に繋がっていった訳です。
これが、僕と「マンガ」の世界の衝撃的な出会いでした。
次回はマンガデザイナーズラボを設立する前に設立した、「ターゲット・メディアソリューション」の頃についてお話ししていきます。
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