沖縄本土復帰50年企画「未来へ」❶想いを伝えるプロデュース
どうもどうも、吉良です。
2022年5月15日に日本は沖縄県の本土復帰50周年を迎えます。
現在、NHK連続テレビ小説で『ちむどんどん』が放送されているように、沖縄県を取り上げる機運が高まっていると感じている方もいるかもしれませんが、今年が「本土復帰50周年」だということは、どれほどの方がご存じだったでしょうか?
現在の沖縄県だけを見ると、観光地・リゾート地として考える方もいるかもしれません。しかし、沖縄県がどのような歴史を経て、現在に至るのか、この機会に日本のみなさんは知る必要があると思います。
僕は学生時代に戦争を経験した父から、「一つだけ望みを言うなら、どんなことがあっても戦争のある時代に生きてほしくない」という、平和を願う想いを聞いて育ちました。
今回は父の想いを受け継いだ僕の平和への想い、沖縄への想いをお話ししていきます。
僕が初めて沖縄県を訪れたのは1990年代半ばの家族旅行でした。
後述する沖縄戦のことは知っていたため、最初の沖縄旅行は沖縄の歴史を振り返る旅と決めていて、観光をせず、海に入ることなく、平和祈念公園やひめゆりの塔などを巡りました。
そのとき、その後の僕の沖縄県に対する想いを決定づける大田実中将の言葉に出会いました。
日本唯一の地上戦がおこなわれた沖縄県では、国民をあげて1945年6月23日まで戦いが続きました。沖縄県は、この日を沖縄戦等の戦没者を追悼し、恒久平和を願う日である「慰霊の日」と制定しています。
沖縄戦では、沖縄県の民間人の方をはじめ、様々な地域から派遣されて戦った方、日本軍として戦った中国や韓国の方、敵国の方、合計で約20万人、沖縄県にいた4人に1人が戦死したと言われています。つまり、家族全員が無事だったという状況はほとんどないということが想像できます。
そして、終戦した1945年の後、1952年4月28日に制定された対日平和条約によって1972年5月14日まで沖縄県はアメリカの信託統治下にありました。日本のために全力をあげて戦い、生き残った人々もすべてアメリカに統治されたわけです。
これが大田実中将の仰る「県民に対する後世特別な御高配」と言えたのでしょうか。本土と呼ばれる土地に住む私たちもこれを他人事と思ってはいけないと思います。
沖縄県で地上戦がおこなわれたことは何かの機会に聞いたことがあるはずです。そして、修学旅行などを通して実際に関係する場所に行ったことがある方も多いと思います。
しかし、日本に復帰してからの「沖縄県の再興」についてご存じの方は少ないのではないでしょうか。このような機会だからこそ、今、我々がすべきことはなんだろうと僕は考えました。
1972年に本土復帰してから2022年までの50年間、沖縄県が努力し、成長してきたあらゆる分野に目を向けたい、そしてこれからの平和な未来へとつなげていきたい、そんな沖縄への想いを表現したく企画をイメージしたのが2021年の晩秋の頃でした。
この企画は僕のライフワークの一つとして位置づけ、検討に検討を重ねました。まず、この企画を沖縄県の新聞社である琉球新報社への企画として組み立てました。しかし、それでは僕の想いは沖縄県民にしか届きません。
沖縄県の復帰50年のあゆみを知ってほしいのは日本人全てだ!
この想いに応えてくれたのが、長年たくさんの企画をともに制作してきた日本経済新聞社でした。コロナ禍において苦労を共にした日本経済新聞社の方と電話で話したとき、「吉良さんのライフワークを応援しないわけにはいかないですから」と仰っていただいたときの感激は言い表わしようがありません。
企画は5月15日の沖縄本土復帰50年に向けたカウントダウンを5月9日より琉球新報社企画としてスタートし、15日の沖縄本土復帰50周年当日は見開き30段の企画を琉球新報社と日本経済新聞社の両紙で実施します。
今回の企画におけるデザイン手法として、僕自身が大好きで自宅の居間にも飾っている沖縄県の伝統工芸である「紅型(びんがた)」の手法を使って制作しました。
テーマはたくさんの人々の想いを込めて「未来へ」にしました。
下記はそのプロローグマンガデザインです。
明日からは5月15日に向けて、ひとつひとつのテーマについてお話ししていきます。明日(5/10)は「自然・環境篇」です。お楽しみに!
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