映画『インターステラー』に見る、現代版『怒りの葡萄』とその背景
ーニューディール政策やマッカーシズムに見るアメリカ史の再評価をもとに、50年後のアメリカを想像する。
CC BY SA Wikipedia(https://en.wikipedia.org/wiki/Dust_Bowl)
映画『バックマン』のダークナイト・トリロジー三部作やレオナルド・ディカプリオが主演の『インセプション』、戦争映画『ダンケルク』等で有名な映画監督クリストファー・ノーランは、英国出身でロンドン大学で文学を専攻した脚本家でもある。
SF映画『インターステラー』はもともとスピルバーグが監督する予定で、途中から脚本を弟で脚本家のジョナサン・ローランと共に参加し、最終的にメガホンを持つことになった作品である。この映画の冒頭では、主人公がかつて宇宙飛行士であり、何らかの事故で成層圏から墜落した記憶がフラッシュバックされるシーンから始まる。一転、TVのドキュメンタリー番組の生々しいインタビューに切り替わり、気候変動によって生物多様性が失われ、頻繁なダスト・ストーム(砂嵐)の発生で人間が皆農夫となっても年々農作物の種が絶え、人類の存続の危機にさらされていることがわかる。実はこの砂嵐や窓やドアを閉めても砂塵が伏せたお皿に積もっていく情景は、1930年代にアメリカ中西部で実際に起こった自然災害であり、後に米国が誇るトラクターやコンバインなど大規模農場化の過程で生まれた人災であったことがわかる。その間、テキサス州、アーカンソー州、オクラホマ州などでは多くの土地で農業が崩壊し、農家は離農を余儀なくされ、30万から40万人もの元農夫が職を探しにカリフォルニア州などの西部へ移住した。この経緯を小説にしたのがノーベル文学賞やピューリッツァー賞を受賞したジョン・スタインベックの『怒りの葡萄』である。
実は冒頭のインタビュー映像は、映画のために撮られたのではなく、ダスト・ストームという災害を実際に体験した語り部たちのフィルムを流用したのなのだった。さて映画は、当時の面影を残す古い木造の一軒家に住む元宇宙飛行士で、今は農夫の主人公が高校を卒業予定の長男と、中学になろうかという娘のマーフィーを連れ、学校へ子供たちを送るシーンとなる。途中、辺り一面のトウモロコシ畑の上をドローンが旋回し、主人公はそれが古いインド空軍の自律航行探査ドローンであることを見抜き、車で追いかけ、パソコンでハッキングし、着陸させた上で、部品を農機具に変えるためにトラクターへ積んで、子供たちの学校へ行くことになる。遅刻先で待っていた担任教師と校長は、娘のマーフィーは父親のエンジニア気質を受け継いだ利発な子供ではあるが、学校で教えるNASAのアポロ宇宙計画はプロパガンダで嘘だったと教える女性教師や同級生にかみつき、喧嘩するという問題児でもあった。実はここで、この映画の主要なファクターがほとんど出てきてしまう。いや、自宅の本棚で起こる重力の異常を除いて。
映画はその後、急展開し、主人公の父親は再び第二の地球を目指して、星間(Inter-stellar)探査へと向かうことになる。愛娘のマーフィーを残し、ワームホールを飛び越え、先行した探索隊の信号を頼りに次々と地球に似て非なる過酷な惑星と人間の性(さが)による脅威と恐怖を乗り越え、主人公は時空の地平線をも飛び越え、自らを探索に誘導した謎の”かれら”の次元に迷い込む。そこで初めて、本棚の異常は唯一多次元と3次元の自宅を結ぶ重力で自分が自分へのメッセージを送っていたことに気付く。続きは映画を見て頂くとして、この映画が『地獄の黙示録』がジョセフ・コンラッドの『闇の奥』を下敷きにつくられたベトナム戦争映画だったように、この映画も発売当時は、コミュニストの作品として危険視されつつもベストセラーになった『怒りの葡萄』が下敷きになってつくられたSF映画だったことに気付く。アメリカ人が常に過酷な環境から逃れ、そこから這いずり出るようにアイデンティティーを得た通り、この映画は『怒りの葡萄』のエンディングと同様、民衆の生き続けるたくましさを賞賛するごとく、主人公は”かれら”に移り、物語は終わる。 残念なことにスピルバーグは、『闇の奥』の映画化をUCLA時代に企画し、同級生で友人のフランシス・コッポラに先を越されてしまった。そのおかげで、映画『スターウォーズ』が誕生したのだが、実はその動機がSF版の『闇の奥』、つまりダークサイドを軸にしたエンターテインメントとして生まれ変わったことに気付く人は少ない。そして、またしても米国のノーベル文学賞作家であり、アメリカの民衆の魂とも言える『怒りの葡萄』のSF版を若き世代のクリストファー・ノーランへ監督を譲ったことになる。
『インターステラー』がただのSFに終わっていないのは、実は近未来よりも近い明日を描いているからである。”かれら”が授けてくれたのはワームホールのお膳立てに過ぎなく、ドローンをハッキングしたPCも宇宙船も現代のものと、あまり代わり映えしない。つまり、数十年先に世界がこうなったとしたら、映画のように人類が生き延びる手立てはないということの裏返しでもあるのだ。なぜなら、われわれには、その時、プランAも、プランBもなく、”かれら”によるワームホールのお膳立てもないだろうからである。そう考えたとき、われわれの心の糧になるのは、どちらかというと『怒りの葡萄』の方にある。そもそもこの本のタイトルは、以下のヨハネの黙示録 第14章(天の戦い、地における獣の増大、地の刈り入れ:鎌が地に投げ入れられる)を知らないと、<葡萄>が神に選ばれなかった人間の比喩を意味することがわからない。つまり、黙示録の中で神の怒りをかった人間を意味し、その理由がことごとくあまねく人間の側にあることをスタインベックは見抜いているのである。もちろん、ただ慎ましい信者であればよいのではなく、およそ非人道的な行いを貧者に鞭打つ特権的な階級やその横暴さを見て見ぬふりをした普通の人間にも矛先は向いている
また、私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲に人の子のような方(救世主を指す)が乗っておられた。頭には金の冠を被り、手には鋭い鎌を持っておられた。すると、もう一人の御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。「鎌を入れて刈り取ってください。地の穀物(神に選ばれた人間の比喩)は実ったので、取り入れる時が来ましたから」そこで、雲に乗っておられる方が地に鎌を入れると、地は刈り取られた。また、もう一人の御使いが、天の聖所から出て来たが、この御使いも、鋭い鎌を持っていた。すると、火を支配する権威を持ったもう一人の御使いが、祭壇から出て来て、鋭い鎌を持つ御使いに大声で叫んで言った。「その鋭い鎌を入れ、地の葡萄(神に選ばれなかった人間の比喩)の房を刈り集めよ。葡萄は既に熟しているのだから」そこで御使いは地に鎌を入れ、地の葡萄を刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒舟に投げ入れた。その酒舟は都の外で踏まれたが、血は、その酒舟から流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。
『怒りの葡萄』の主人公のトム・ジョードは、その仕打ちに対して、怒りこそ覚えるが、そこで安易に屈服しない男であって、神の怒りが砂嵐や気候変動になって、故郷オクラホマの農地を襲ったとしても、流民となって新天地・カリフォルニアへ出立し、更にそこで起こった凄惨な出来事によって再び脱出(エクソダス。旧約聖書にある出エジプト記。転じて大量の国外脱出の意)するのだった。(続く)
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