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「故郷」だけど「故郷」じゃない。

皆さんにとって「故郷」とはどんな場所でしょうか。
帰れる場所、安心できる場所、逆に忌まわしい場所と思う人もいるかもしれません。

そんな「故郷」について『断片的なものの社会学』(岸政彦 著)にちょっと考えさせられた文章がありましたので引用します。

十年ほど前に那覇で乗ったタクシーの運転手のおっちゃんは、私は奄美の人間で、沖縄は合いません、と話していた。
本土の人間からすると、どっちも似たようなものだと思いがちなのだが、実は奄美と沖縄とはかなり複雑な関係にある。

そのおっちゃんは、戦時中に朝鮮半島で生まれた。
両親が奄美出身だった。小さいころに太平洋戦争が終わったのだが、彼がいた地域は「北朝鮮」となり、「朝鮮人たちからひどい扱いを受けた」という。
朝鮮戦争が始まるころにようやく日本に引き揚げ、奄美に帰ってきた。彼にとっては、「はじめて見る故郷」だった奄美だが、わずか数か月のうちに、当時は米軍政下で同じ「琉球」だった沖縄本島へ出稼ぎへ。
その当時の那覇は、経済成長のまっただ中で、仕事がたくさんあったという。
しかし、沖縄へ出稼ぎに来た直後、一九五二年に、奄美は沖縄より先に日本へ返還されてしまう。
そのまま沖縄に残った「日本人」としての彼は、軍政下の沖縄で「外国人」として扱われてしまう。
そのときから、いろいろあったのだと思う。
沖縄の復帰後も、ずっと那覇に住んでいる。
そのおっちゃんは、朝鮮で生まれ、人生のほとんどの時間を沖縄で過ごしている。
奄美で過ごしたのは、わずか数か月しかない。

運転しているあいだ、おっちゃんは、何度も何度も、「私は奄美の人間ですから、沖縄は肌に合いません」と繰り返していた。
奄美にいた数か月以外は、七十年ものあいだ、ずっと「よそもの」として暮らしてきたのだろう。

(太字部分は僕が勝手に太くしたものです)

この文章を読んでいたとき、著者が込めた趣旨とは別に、「このおっちゃんの『故郷』は奄美と言えるのか」ということを考えてしまいました。

「故郷(こきょう・ふるさと)」の辞書的な定義としては
①「生まれ育った場所」
②「当人に古くからゆかりの深い土地」
などでおおよそ統一されているように思えます。
ではおっちゃんにこの定義を当てはめて考えてみましょう。

まず①を当てはめた場合おっちゃんの故郷は朝鮮半島ということになります。
奄美にも数か月いたとのことですが出稼ぎに行く直前のため「生まれ育った」に該当するか怪しいところですね。
沖縄は出稼ぎ先であるため該当しません。

次に②を当てはめると沖縄や奄美なのかなとも思えてしまいます。
その土地に滞在していた時間の長さは順に「沖縄>朝鮮半島>奄美」となるため沖縄とも、両親の出身が奄美ということもありおっちゃんに関係性が深い土地としては奄美も捨てきれないのではないでしょうか。
もちろん朝鮮半島も該当しうると考えられます。

というように辞書的な定義を当てはめると上記のような結果になりますが、おっちゃんは「私は奄美の人間ですから」と口にする描写があります。

それから、「奄美にいた数か月以外は、七十年ものあいだ、ずっと『よそもの』として暮らしてきたのだろう。」という著者目線の記述も見受けられます。

生まれ育った朝鮮半島も(元々は日本ではない土地であり、)今では北朝鮮という日本とは別の国になってしまい、出稼ぎ先の沖縄は日本に返還されたものの長い間「外国人」として扱われていたためその記憶もなかなか拭えない。
だから数か月しか滞在していないにもかかわらず奄美を「故郷」と呼んでいるのではないでしょうか。

帰る場所があるから「故郷」と呼んでいるのではなくおっちゃんの場合は帰る場所がないが故に(しかたなく)「故郷」と呼んでいるのではないでしょうか。

「故郷」だけど「故郷」じゃない。
おっちゃんはそう言いたいのでは、というわけではないのですがこの文章を読んでいて少なからずそんなことを考えてしまいました。

「奄美にいた数か月以外は、七十年ものあいだ、ずっと『よそもの』として暮らしてきたのだろう。」

この一文からは帰る場所があることの幸福さ、故郷の辞書的定義と感覚的な定義の差異やそもそも「故郷」とは一体何なのか、など個人的にたくさんのことを考えさせられました。

皆さんにとっての「故郷」はどんな場所ですか。
帰れる場所ですか。
安心できる場所ですか。
故郷のイメージや思い出話などございましたら是非お聞かせください。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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