いまここ #デジタルデトックス
bリーグのライアン・ロシター選手の手首に、「いまここ」と書かれていると話題になったことは大分前の話だ。
今一度、「いまここ」を考え直してみたい。
最近の私は、夜飲み過ぎである。次の日、大体二日酔いになっていて、朝ごはんを食べていてもなかなか元気が出ない。朝ご飯も美味しく感じない。悪いことだらけだ。
その中でも、これは良くないなと思うのは、話を聞いているようで聞いていない(聞けていない)ことである。
「ちゃんと聞いてた?」と言うパートナー。
「全然話聞いてないじゃん」とズバッと告げる子どもたち。
聞きたくないわけじゃない。パートナーや子どもたちの話をむしろ聞きたい。
でも、映っている私の姿は、「聞いていない」のである。
つまり、聞いているようで聞いていない。
これはよくあるなーと猛省。
特に、見ているようで見ていないこともある。
体と心が一致していないのである。
私の体は、確かに朝ご飯の時に食卓に存在しているが、心はどっか飛んでいってしまっている。
二日酔いのときだけでない。スマホをいじっているときもそうである。
心がどっか飛んでいってしまう。心がメタバースの世界へ飛んでいってしまう。
体は現実世界に存在しているが、心が一致していない。これほど、曖昧な、無意味な時間を過ごすのは生きていると言えるのだろうか。
これから(もう入っている?)、Web3.0の世界で、現実世界との共存が、生きている意味を考える重要なキーワードだ。体がここにあるなら、心をここに置く。
これができる人間が、現実世界とメタバースの世界を行ったり来たりして、充実した人生を送れるのだと思う。「いま、ここ」だ。
現実世界には、デジタルデトックスは必須になるはずだ。曖昧な時間の過ごし方はごめんだ。
深酒はほどほどにして、パートナーや子どもたちの話をじっくり聞いて、温かい時間を過ごせるように努めたい。