コロナ下のフードファイター
辛いものをよく食うようになった。味覚と嗅覚の区別があまりついていないが、おそらく俺は味覚を失った。たった一晩、37度の熱が出ただけで。
胡麻ダレ冷やし中華からまったく胡麻の味がしなくなった。胡麻の香りがするから「ああ、俺は胡麻を食べているんだろうな」という感覚はある。以前から曖昧だった俺の自我と生存本能から「食」が抜け落ち、容量が33%削減された。
しかしなくなってみると惜しいもので、俺は「味」を求めている。舌先がざらつく、しかし感覚は希薄。物理的な気持ち悪さ。おそらくコロナ後遺症。
俺を救うというか、俺が陥ってしまったのが「辛いもの」だ。辛いものを食べている時は食事の感覚が罹患前と同じなのだ。
「辛」は「味覚」ではなく「痛覚」だ。この抜け道を這って、辛いものだけが以前の舌の有り様を思い出させてくれる。思い出になる前に、俺は痛みを受け続けなければならない。敬虔な苦行は同時に胃壁へのツルハシでもあった。俺は胃をボロボロにしながら産出量0.00tの坑道を進み続けている。
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完全栄養食のクソマズパンもまた、味覚を失ってなお不味い。口腔の水分を吸いまくり、モチャモチャと不快な噛み心地。そう「食感」という「触覚」の抜け道からアプローチして、以前と変わらぬ不快感を与えてくれるのだ。
ある日、激辛カップ麺の残り汁を飲みあぐねていると(俺は残り汁をどうやって捨てたらいいとかそういう生活の基本的なことを知らないから、カップ麺の残り汁も、そばの汁さえ、飲み干すのだ。笑えよ。)悪魔的アイディアが浮かんだ。どうせ味なんかないんだから残り汁にクソマズパンを突っ込んで食べよう。俺は自分を傷つけたくて、そうしたんだろうな。
俺はグチョグチョになったクソマズチョコパンを箸でつついて、箸で持ち上げて、もたげたパンの首に向き合い、エビを食うように食った。ああ、不味かった。味覚の正体がつかめてないので曖昧だが、たしかに不味かった。触覚と視覚、辛味油と臭チョコは阿婆擦れハーモニーを奏で続けた。オーケストラには、ただ味覚だけが不在だった。俺は指揮者として箸をふるい続けた。
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俺を故郷に帰してくれると思っていたカップ入りの痛覚発生装置達は、何も導かなくなっていた。中本に爛れたBASE FOODチョコ味は俺に現実を見せ、味覚を遠ざけた。
BASE FOODの箱に入っている謎思想紙で、とうに頬を落ち、乳首を伝う涙を拭いた(俺は洗濯とか、基本的な生活のためのパーツが欠落しているからラーメンを食べるときは服を脱ぐしかないのだ。一緒に泣いてくれるか)。