🅼の臨床推理日記 ❶ことはじめ
🅼が、徒手治療家として臨床にたずさわってから数十年になる。
ふりかえれば、さまざまな症状を訴える患者さんを診ながら、ひとりの治療家としても多くの気づきを得て来たように思う。
それぞれの患者さんの訴えを聴き、その原因を探る。この一連のプロトコルを通じて、問題点に推論を組み立てながら解決に導く。その様は、さしずめ犯人捜しの推理学にも似ているだろう。
体に悪さをしている犯人捜しである。ならば治療家は「臨床探偵」のように推理能力を働かせる必要があるのだろう。
推理と言えば、若い頃から探偵シャーロックホームズの推理を書いたドイルの小説が大好きだった。
「ボヘミア王家の醜聞」に、こんなセリフがある。
「ほら、やっぱり!きみは観察していないんだ。だが、見ることは見ている。その違いが、まさにぼくの言いたいことなんだ」
「見ること」と「観察すること」は違う。
そこから推理・推論が生まれなければならない。
わき目もふらずに向き合うことを、達磨大師の譬えから「面壁九年」ともいうが、初心の頃は直面した問題にのみ対峙していたように思う。
みる視点が直線過ぎて、多角的に俯瞰することが出来なかったように思う。余裕すらない年月だったのだろう。
視界が広がったのは、九年どころか十年を優に超えてからのような気もする。
それでも長く続けていると「慣れ」が生じてくる。俯瞰してみれるようになるのと「慣れ」るのとは違う。
「慣れる」と余計な苦労がなくなる。治療にもメリハリが生まれてくる。
そうなると、張りつめっぱなしの時間に力の抜きどころが分かるようになる。
さらに慣れてくると惰性になる。抜きっぱなしになりかねないのだ。
それは治療家にとって恥にもなる。
患者さんが訴える症状は「現象」ともいえる。
ところが損傷でもない限り、現象の部位に「原因」がるとは限らないのだ。
では、どうやって犯人に辿り着くか。
犯人は隠れている。だから「潜象」を捜す推理・推論力が要求される。
そんなわけで、臨床の中で推理推論しながらのプロセスを記録しておこうと思い立った。