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寄稿|まちになりたい

 日本全国津々浦々、その土地その土地に文化がある。だけれども、その担い手や、理解者の数は年々減ってきているところがほとんどだろう。スマートフォン全盛の今となっては、誰でも文化を受信できる反面、文化を発信するような「場所」は存在感を失いつつある。都会のキラキラした文化発信基地からインフルエンサーたちが拡散した「文化」が世の中を席巻している。

 僕は鹿児島、それも離島、最寄りのコンビニまで車で20分の田舎の出身で、そこはギリギリ島内にはコンビニが数店舗あった。だからそう例えば「何もない」がある、わけではない薄味の街だった。ネット環境も整っていなかったし、スマホネイティブでもないし、テレビもたいして見なかったので、文化といえば本だった。といっても、書店が近くにあったというわけでもなく、 車で40分かけて市内中心部の書店まで出なければ、そういうものに触れることもできなかった。 文化は遠いものだった。さて、今回なぜ僕がこのような話をしているかと言えば、友人である早崎さんが熊本の地元、甲佐町という明るい農村みたいなところで古本屋をやることにしたというので、その開業準備中の古本屋・古着屋のnoteアカウントをジャックして何やら書き物をしてみようじゃないかと思い立ったからだ。店名は「本と衣 日日」という。先ほど明るい農村と書いたけれど、僕は現地を知らない。ただ、早崎さんの実家近くにある旧宅跡地に小屋を立てて古本屋と古着屋をやるのだ、ということしか知らない。まいった、これではどう書いて良いのか分からない。明るい農村ですらないかもしれない。そもそも古本屋や古着屋を、それもほとんど無人でやるのだというけれど、いったいそれはどういうことなのでしょうか。

 考えてみよう、田舎にぽつんと出現する無人の店。それは多分、店舗の周りで猫が戯れているような長閑な場所にある。そういうところで、あえて無人で古本古着屋をやる意味って何だろうか。ううん、ちょっとだけ見えてきた気がするのだけれど、ただ、そこに居るだけの人を肯定したいのだと思う。人はただ生きるだけで打ちのめされることもある。それこそ田舎出身としては、触れたい本に触れられない、着たい服を売っているお店が無い、といった、都会では文化として成立している文字や服たちを覗き見ることが出来ないということにすら、打ちのめされていた。確かに、インターネットは飛躍的に発達し、今では本や服を手に入れられない苦しみは少し軽減されたかもしれない。本当に、少しだけ。けれど。そもそも「着たい」「読みたい」という欲求すら持てないこともある。服はまだしも、本の流行は、もっといえば自分に合いそうな本の感覚をネットとの対話だけで得るのはかなり難しい。なんとなく背表紙を見て気になる本が手に取れる、そういう感じが理想的なのだろうな。私たちはそうやって、少しずつ自分のやりたいことや、なりたいものを探していく。宝の存在地を探索する。本と服は、そのときに必要になる。 ただただ押し寄せる日々は私たちをおもむろに傷つけて、去って行く。私たちはただその汀に佇み、何でもないわけではない24時間の去来を幾度もやり過ごす。だけど、時々やはりどうしようもなく打ちのめされる。その痛みは私たちが生きていることの証明でもあるのだけれど、だからといって、痛くないわけじゃない。ただただ過ぎゆく日々は、ただただ痛いということがある。 そういう時に、本はたしかに、お守りになるし、服は自分を保つ防具になる。そして本は心の現在地からの移動のために存在する事ができるし、服は自己肯定の強い道具になり得る。私たちは、ぎりぎりのところで書かれた文字や、紡がれた服に逃げ込む事もできる。「本と衣 日日」 は、買わなくても古本の貸出も可能だし、ほとんど無人な店だ。そこにいるあなたをきっと、そこにいるということと一緒に肯定する。「本と衣 日日」は、肯定から始まる。

 さて、肯定から始まる、と書いたものの、店主である早崎さんはどう思っているのだろうか。 確かめたかったことがある。それは、わざわざ本屋や古着屋という場所を作る、ということに関して、早崎さんはどういった思いで取り組むのだろうか、ということだ。ただ場所を作りたいだけであれば、例えばWi-Fiを飛ばして雨を凌げるフリースペースだって、立派な場所になり得る。そんなに洒落てなくても良い。けれど早崎さんは古本・古着屋を志向し、そこに「本と衣 日日」という名前をつけた。その意味を知りたかった。何気ない会話のなかで、早崎さんは「私は、何も対価のないままお金だけもらうのってすごい苦しい」と語った。ここで言う対価とはなんだろうか、単純に十分なお金という意味ではきっと無いだろう。無料のスペースを否定しているわけでも無い。

 おそらく早崎さんは、店に来てくれた人が、たとえ何も買わずにそこに佇んで時間を過ごすだけでも、ある面では良いのだ。だけれども、そこに古本や古着を売っていることによって、お客さんとして出迎えることができる。物を売っている人と、物を買いに来た人という対等な関係が成立する。それを早崎さんは対価と呼んだんじゃないだろうか。対等がいい。おたがいに「うしろめたさ」は持ちたくない。そういう感じで。そして来てくれたお客さんへの肯定として、ほとんど無人にするのかなと思った。無人でお客さんを迎え入れるというのはとても勇気がいることだけれど、それは居場所をなくして当てもなく彷徨っているような人には大きな肯定になる。やっぱり、肯定なんだろうな。そこに来たあなた、いらっしゃいませ。そこにはいられないけれど、来たいと思って下さっている方、いらっしゃいませ。とでも言わんばかりの、日々を生き抜く私たちへの力強い肯定なのだ。

 この文章を書き始めてから早崎さんに会った時、「文化の発信拠点ばかりにはしたくない」と言っていた。そもそも「発信」が目的なのか、と。むしろ「文化の発信拠点」みたいな紋切り型の表現はガンガン否定していきたいらしい。なるほど、そうか。確かに、都会から田舎に戻ってきたIターン者やUターン者たちが、「都会の視点」を活かして、「文化」としての古本屋を開業し、 そこに地元の人が集う、というのは、物語としては非常に優秀だ。もちろん、それが必要なまちはたくさんある。あるのだけれど、早崎さんが作りたいのは必ずしもそういう場所ではないらしい。そもそも地図で開店予定地を見せてもらった時、そんなことほんとうに可能なのか、と思った。町内の中心部から離れ、背後にそびえるのは山。そこで古本と古着の店をやろうというのだから、これは一大事なのだろうと直感した。ただ文化の発信拠点としての優秀な物語を編みたいのであれば、町内中心部にお洒落な店構えでちょっとだけ入りづらそうな個性的なドアの店にするとか、やりようは色々ありそうなのだけれど、「本と衣 日日」は多分そうはならない。じゃあ早崎さんがやりたいことって、何なのでしょうか。これが答えだ、とは言わないけれど、多分これもあるだろうな、というのはある。まちになりたいのだ。まちになる、溶け込むのではない。そこにあたかも当然のようにある、無ければそれはそのまちではない。そういう場所。早崎さんは「熊本で本屋というより、甲佐町で本屋・古着屋をやりたい」と明言した。熊本で古本屋といえば、なんとなくそういうことかなぁという恍けたイメージが立ち上がるけれど、そこからさらに解像度を上げる。甲佐町で、やる。それはもう、溶け込むなどという生やさしいものではないというか、ドロドロに溶けて、水になって、吸収されて一体化するような。そういう覚悟のように思えてならないのだ。

 さて、開業していない店に対してあれやこれやと思いを巡らせるのもほどほどにしろ、と早崎さんに怒られそうな気がしてきたのだけれど、まだまだいく。結局のところ本屋をやりたい、古着屋をやりたいという熱意と、大まかなやりたいことはそれなりにわかった。けれど、それって本当に求められているんだろうか。あれをやりたい、これをやりたいだけでは結局立ち行かなくなってしまうんじゃあないですかね。何がやりたいんですか、という話をせっかくなので早崎さんにも聞いてみた。「古本・古着屋はあくまで開業のきっかけなので、ぼやっとさせておくほうがいいのかもしれない」と。これはどうやら本人すらわかっていないらしい。大丈夫だろうか、 と思うけれど、なんだかこれから発展していって欲しいし、そうしてくれるんじゃないかと、僕はそう思うことにした。

 下北沢の屋外で勤労者と思しき2人の愚痴放談を、聞こうと思わなくても聴こえながら読書をする僕の眼差しが見据えるのは、どこだろうか。「たかがワンコインのことでキャーキャー言ってた」と男の神経質さに正論をぶっ放す女性2人を横目に、けれど例えば古本一冊で、ワンコインで人生変わることってありますよね、などと思う。そう、ワンコインで買えるような古本は時に、 人生を変えてしまう。長すぎる旅路の行く先をぐらつかせてしまう。人生を変える店、が古本屋であったとして、何ら大きすぎる話ではない。そういう店の立ち上がりを端っこの方から見てい られるというのは、なかなか面白いものだ。これからもこのnoteは更新されていくらしいので、 僕も頻繁に登場させてもらおうかと思う。頼んでもいないのに、と追い返されたら酒でも飲んで泣いていよう。

(大田栄作/文筆業)

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