「尊敬」と「敬意」
こんばんは、ももんがです。
このあいだYouTubeをみていたところ、「尊敬」「敬意」について話をしている方がいました。わたし的にもおもったことがありましたので、表現してみたいと思います。
わたしは学校の教員だからといって、すべての教員が「尊敬できる方」だと思っていはいませんし、わたし自身できれば尊敬される人間になりたいとは思いますが、生徒に対してわたしの評価を強要するつもりはありませんでした。どういうことかというと、教員であっても知らない知識や技術もありますし、きらいな科目もあります。ですので生徒にとっては「有益な」情報等を持っていないこともあるわけです。
そうすると、教師であること担任であることがイコールとして「尊敬するべき人間」とはならないと思うのです。また生徒のことを考えると言っても、本当に生徒のことだけを考えての行動である教員ばかりではないのです。
わたしと一緒に勤務をしてくださった先生方の中には、わたしの評価とわたし以外の教員の評価があまりにもかけ離れている先生もいました。
わたしが勤務した学校のなかには、陰口や悪口などそれこそ「いじめ」のようなことが横行している学校もありました。
そういう教員の裏側をみると、正直世間一般で言われている「社会に出たことのない」人間が多いことがわかります。
また教員の本来のあり方というのは、教員同士はもちろんですが、生徒対教んも、生徒同士も「敬意をはらう行動をする」ことが必要であることと、その中から自分が「尊敬できる人物」に出会えるように研鑽することを学ぶ場でもあると思います。
しかしながら、今の学校というのは相手を貶めることに対して一生懸命になっている大人(教員)を見ていることで、児童生徒の正しい精神的発達ができないのではないかと心配しています。
わたしのおよそ20年の教員生活で「尊敬できる」先生はそんなに多くありませんが、わたしのなかではとても大きな出会いであったと思っています。そして「尊敬できる」生徒もいました。
まだまだ未成年ですが、「考え方」「行動」等、とてもすばらしい生徒がいたのは間違いありません。
教員のなかには「生徒」に対して「見下す」ような発言や行動がありますが、生徒の本質を見抜けない教員にその生徒の可能性を伸ばすことができるのでしょうか。
「人間力を伸ばす」なんていう目標もあるようですが、「人間力がまったく育っていない(伸びていない)」教員がどうやって伸ばせると思うのでしょうか。教員としての職責がわからない、理解できていない教員がどうして、無限の可能性をもつ児童生徒たちに相対していていいのでしょうか。
すくなくとも「教員の職責」を守れなかった元教員は実名を晒し、教員免許を剥奪して、刑事罰もきちんと受けさせるべきだと思います。これをきちんと教育委員会が責任を持って行うことで、現在のような児童生徒を傷つける人間が教員になることが少なくなるのではないかと思います。
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