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人間の「価値」

こんばんは、ももんがです。

今日の記事はおそらく「炎上」してしまうのではと思うのですが、あえてわたしの思いを書いてみたいと思います。

某県公立高等学校、および特別支援学校の児童生徒たちをみると、その大切な「価値」をものすごく感じます。

学校で児童生徒に接するときには、わたしは「児童生徒がわたしのせいでその輝きが失われないように」と常に思っていました。しかしながら当然、わたしに対して「嫌悪感」などを感じる児童生徒もいましたし、わたしに言わなくてもそう思っている児童生徒もいたと思います。

わたしに対して嫌悪を感じていても、手を差し伸べる必要があると感じたときには、できる限り手を差し伸べてきました。もちろん手をはねのけられるこもありましたが、わたしにできることをするだけだと思っていました。

まあ、できれば「笑顔」を見けてもらえるのがうれしいですが、話しかけたときに無視されなければいいと思っていました。

わたしの存在ができれば、わたしのことが嫌いな児童生徒もそうでない児童生徒でも、児童生徒の長い人生のなかで、「あんな人もいたから、いまはなんとかなるな」と思ってくれればとずっと思ってました。

わたしにとって児童生徒は、それこそダイアモンドなのです。「原石」ではありません。わたしに出会ったときには「ひかり輝いている」のです。もちろん成長をするごとに、その輝きは増すばかりなのです。だからわたしという存在がその輝きを雲されるのがいやなのです。

わたしが教員として一番最後まで、苦痛だったのが「評定」です。いわゆる授業の成績。なぜならやりたいと思っ履修したけど、思っていたのと違ったや、1つの科目のなかでも好き嫌いがあって当たり前なのです。だからそれをテストの点数などで10段階で評価するのが違和感しかないのです。

テストの点数のために授業で学ぶのではないはずなのです。興味関心があることの入口を学び、そのあとに生徒が技術知識を得るためのはずです。わたしが作成したテストの点数で、その生徒の本来の知識技術を評価できないのです。

初任の頃の授業クラスでは、前回の授業ではなしたないようから、ニュースがとりあげたとか、気になって調べたとかという教科書に載っていない生徒と会話から、生徒の知識を感じるほうがよっぽど価値があると感じていました。

そうなると最近の観点別評価というものは、児童生徒の本来の「価値」を損なう可能性があると感じるのです。

定期試験で「カンニング」が問題になることがありますが、それは「生徒」だけの問題でしょうか?正直「カンニング」しなければいけない状況を学校が教員が作り出していないでしょうか。
「カンニング」して得られるもの、得られないもの、なくなってしまうものを学んでもらうのは大人として教師として、児童生徒に伝えるべき内容の一つだと思います。

テストの点数で「価値」は変わらないのです。わたしは教師である期間中図と伝えてきたつもりです。

こどもたちの価値は、「元気にすこやかに育ってくれる」ことだと思います。そのために大人はその邪魔を決してしてはいけないのです。


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