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メッセージ要約 2025.1.19 「メフィボシェテと私たちが受けた恵み」
○Ⅱサムエル記9章1節~13節「メフィボシェテと私たちが受けた恵み」(安食滋良牧師)
今日の箇所は、ダビデがある親友との約束を思い出し、その約束を果たす場面です。前回ダビデは、エルサレムに契約の箱を運び入れ、ダビデの行く先々で神様が勝利を与えてくださって、情勢が安定します。そして、その安堵した日々の中で、ダビデは、ふと親友とかわした約束、契約を思い出します。「サウルの家の者で、まだ生き残っている人はいないか。私はヨナタンのゆえに、その人に真実を尽くしたい。(1節)」ヨナタンは、サウル王の息子ですが、サウル王は、ダビデに嫉妬してダビデの命を狙いますが、息子のヨナタンは、身を呈してダビデを助けてくれたのですが、既に戦死して亡くなっていました。
ダビデは生前、その親友のヨナタンとある約束、契約を結んでいました。ヨナタンは「ダビデが後に王になる。」という確信があったので、「あなたが王になった時、私の子孫には、恵みを施してください。」とお願いしたのです。ダビデは、その約束を思い出し、ヨナタンの息子を探すため、かつてサウルに使えていたツィバという者を呼び出します。ツィバから、ヨナタンにメフィボシェテという息子がいるのを聞き、メフィボシェテを呼び出し、今日の箇所で、恵みを注ぐのです。ここでのダビデの姿は、後にダビデの子孫として生まれる救い主イエス・キリストを想像させる型になっている場面です。そして、恵みを注がれたメフィボシェテは、イエス・キリストの十字架が差し出されている私たち1人1人の型になっている。そのことを頭に入れながら、今日は、「メフィボシェテと私たちが受けた恵み」というテーマで3つのポイントで見ていきたいと思います。
1. アイデンティティ(自己認識)の回復
メフィボシェテが受けた1つ目の恵みは、「アイデンティティ(自己認識)の回復」です。ダビデに「ヨナタンの子孫はいるか。」と聞かれたツィバは、「まだ、ヨナタンの息子で足の不自由な方がおられます。(3節)」と答えます。なぜメフィボシェテは足が不自由になったのか。それは、サウルとヨナタンが戦死した戦いの時、乳母が当時5歳だったメフィボシェテを連れて逃げる時に、誤って落としてしまい、そこで怪我をして、足が不自由になったのです。メフィボシェテは、ロ・デバルのアンミエルの子マキルの家で、自分の家を持たず、身を隠していました。ダビデ王に殺されると思ったからです。王の息子として生まれながら、その立場は奪われ、今は体が自由に動かないし、いつ殺されるかわからない。メフィボシェテのアイデンティティは、相当傷ついており、セルフイメージも相当低かったと思います。そんな中、彼は、ダビデ王から呼び出しを受けるのです。
彼は、ダビデの前にひざまづいて、挨拶をし、全身震えながら、額を地につけている様子が思い浮かびます。しかしダビデは、「恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのゆえに、あなたに恵みを施そう。あなたの祖父サウルの地所をすべてあなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をすることになる。(7節)」とメフィボシェテが想像していなかったような言葉をかけるのです。この時、メフィボシェテの人生が闇から光に移されました。このダビデの提案というのは、メフィボシェテを自分の子供として迎える養子として迎え、めふぃぼしぇての祖父サウルの地所を相続地として返す。という提案でした。さらにダビデは「あなたはいつも私の食卓で食事するようになる。」と言います。これは、王の息子たちの1人のように、食事を共にすることです。メフィボシェテは、事実上ダビデの養子として迎えられたということです。このことにより、メフィボシェテは、全く新しいアイデンティティを得ました。没落者という古いアイデンティティを捨てて、彼は全く新しいアイデンティティを持って歩み始め、彼のセルフイメージは回復に導かれていくわけです。このメフィボシェテの姿は、私たち1人1人の姿であり、私たちも神様と出会う時に、その歪んだアイデンティティが回復に導かれていくのです。
2.私たちの救いの姿
2つ目の恵みは、「私たちの救いの姿」という点です。メフィボシェテは、足の自由を失っていましたが、私たちもみな、アダムの罪の影響を受け、落とされ、正しい歩みを見失っていた存在でした。メフィボシェテと同じように、死の恐怖から身を隠し、不毛の地で生きてきた。それが、クリスチャンになる前の私たちの姿です。
しかし、そんなあなたを救うために、神様は、今日のダビデのように、王の側から手を差し伸べてくださった。イエス様は、あなたを裁くめではなく、救うために、一方的な恵み、十字架の救いを差し出してくださった。
そして、あなたが十字架の救いを受け取る時に、神様と新しい契約関係に入ったのです。あなたは、神の子供とされ、その恩恵を受ける存在となり、天の御国で、約束の相続地を受け継ぐものとされた。また王の食卓で交わりが許されるものとされた。その驚くべき恵みが、私たち1人1人に与えられているのです。メフィボシェテに与えられた一方的な恵みが、全ての人に向けて差し出されている。私たちは、そのことを覚え、まだその救いを知らない人たちにその救いを知らせていく。そのようなものでありましょう。
3.私たちの救いの永続性
3つ目の恵みは、「私たちの救いの永続性」という点です。ダビデとの契約故に、メフィボシェテは、恵みの中を歩み続けました。では、私たちに向けられたイエス様の恵みはどうでしょうか。ずっと続くのでしょうか。私たちは、十字架の救いを受け取った時に、過去現在未来、全ての罪が許されている。そして、その救いが、取り去られることはない。その揺るぎない土台の上に立つべきです。ローマ8章1節にあるように、「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が、罪に定められることは決してない」からです。ダビデはヨナタンとの契約ゆえに、メフィボシェテを受け入れました。イエス様も、契約ゆえにその救いの約束を守られる方です。私たちは、今日のメフィボシェテの姿から、私たち自身に注がれている恵みを、もう一度思い起こしましょう。(T.H)