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メッセージ要約2024.1.21
○マルコの福音書14章26節~42節「その瞳の中には」(安食滋良牧師)
困難を通された時に、愛する人にどのような態度を示せるのか。それは、とても大切なことです。今日は、イエス様が大きな困難を通される場面です。その時イエス様は、愛する者達にどんな態度を示されたんでしょうか。
1.イエスの苦しみの内容
イエス様は、11人、裏切者のユダを除いた11名とゲッセマネの園に行き、そこで中心的な弟子3名、ペテロ、ヤコブ、ヨハネとさらに奥に進んで行かれます。そこでイエス様は、深く悩み、もだえ始めたと書かれています。猛烈な悲しみ、苦しみを表現されます。それは、弟子たちにとって今まで見たこともないイエス様の姿で、イエス様は3人に執り成しの祈りを頼みます。しかし、この3人の弟子たちは、このイエス様の痛みというものが汲み取れておらず、何度も眠り込んでしまうのです。ではイエス様の苦しみとはどのようなものだったのか。
35~36節「それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。「そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯を わたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」
ここで杯とは何を表しているのか。旧約聖書では、杯は「神の怒り」を表すものとして描かれています。そして、今日の場面、イエス様の前に置かれた杯、それも神の怒りを表すものでした。それをイエス様が飲むとは、罪に対する怒りが、イエス様の上に丸ごと注がれるということでした。また単に肉体的苦痛や死が待っているということだけではなく、この杯の最も恐ろしい点は、父なる神に呪われ、捨てられるということでした。イエス様は、ここで全人類の罪を背負い、その罰と呪いを一身に引き受けて、父なる神に裁かれることを選ばなければならなかったのです。このゲッセマネの苦しみの意味とは、イエス様が、十字架に進む時に、起こることの前味を実際に味わわれ、ご自身の身に起こることを、前もって明確に知るためでした。父なる神は、イエス様にその苦しみを知った上で、体験した上で、なお自発的にその運命を受け入れることを望まれたのです。そして、イエス様はその恐ろしい痛みをここで体験された後、三度祈り、その運命を完全に受け入れられるわけです。
36節「しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」
ここに、イエス様の偉大さがあるのです。
2.なぜその運命を受け入れたのか
イエス様は、父なる神の計画に完全に従う道を選びますが、父なる神は、イエス様を心から愛していたにもかかわらず、イエス様を十字架に送ります。というのも、父なる神には、その他にも愛する人がいたのです。御子の命を犠牲にしても、守りたいと思う人。それが、私たち1人1人です。
<ヨハネ3:16>「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
父なる神様は、愛する私たちを守るために、罪から贖うために、愛する子なるイエス・キリストをこのような苦しみの運命に引き渡されたわけです。そして、イエス様自身が、父なる神様の計画に従い、その道を全うされたのも同じ理由です。
<ヘブル12:2>「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。」
このイエス・キリストの前に置かれた喜びとは、ご自身の十字架の死と復活の先にある多くの魂の救いです。この十字架の先に、愛するわたしたちと永遠を過ごす希望がある。その喜びゆえに、イエス様は、この苦しみを通る決断をされたのです。このようにして、イエス様は、ゲッセマネの園で、神への従順によって、アダムが失った神様への祝福を取り戻してくださった。そして、私たちに救いの道が開かれたわけです。
3.弟子たちとの対比
この箇所には、本当に強烈なコントラストがあります。それが、イエス様と弟子たちの姿です。イエス様が最大の試練を通っている一方で、弟子たちは、イエス様がどれほど大変な状況にあるかをまるで理解していない。自身にも向けられているイエス様の愛をまるで理解していない、眠りこけているのです。それは、彼らの霊的な目が閉ざされていたからです。この弟子たちの姿は、イエス様の十字架を知らずに歩んでいる多くの日本人の姿でもあります。今日の箇所から、私たちは、そのような人たちに福音を伝える使命が私たちには与えられている。その思いを新たにする者でありたいと思います。(T.H)