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メッセージ要約 2023.10.15 「失楽園」
○創世記3章20節~24節「失楽園」(安食弘幸牧師)
小説「フランケンシュタイン」の作者、イギリス人女性のメアリー・シェリーさんは、生まれてすぐに母を亡くし、少女時代に愛の無い家庭に育ち、その自分自身の人生体験を、心の葛藤を交えて小説に書きました。彼女は、小説を書く前に、ジョン・ミルトンの「失楽園」を良く読んでおり、フランケンシュタインが、彼を作った博士を神様に例えて、恨み節を言う箇所があります。しかし、ジョン・ミルトンが書いた「失楽園」の神様は、メアリーさんの理解する神様とはちょっと違うのです。ジョン・ミルトンが書いた失楽園を読むと、罪を犯した人間に対する厳しい神の裁きがあるのだけれども、その背後に本当にこの大きな神様の愛と憐れみが流れていることが書かれている。これは正しい聖書の読み方です。確かに我々は、罪を犯して裁かれて当然だ。でも神様の裁きは、それでもなお私たちを愛して許して憐れんでくださっている。神様の裁きというのは、人間を潰すためじゃなくて、悔い改めに導くためです。もう一度自分と正しい関係に戻ってきてほしい。という意図をジョン・ミルトンは「失楽園」の中で表現しているのです。今日の箇所にも、罪を犯した後の人間に対する厳しい神の裁きが書かれているけれども、よく読むと、本当に神様の深い愛の配慮がなされていることが良く解るのです。
1.「エバ」という名前
20節に「人は妻の名をエバと呼んだ。彼女が、生きるものすべての母だからであった。」とあります。アダムは、人類史上最も賢い人で、物に名前をつけることが出来ました。そして、この女性には「女」という名前を付けたわけです。でも、神様はこの女性から、また子どもが産まれるとおっしゃったので、最初の女には、ちゃんと固有名詞を付けようと思って、アダムが最初の女性、妻にエバと名付けたと書いてあります。エバというのは、どういう意味かというと、「生命」「生きる」「生命を与える者」という意味になります。死の宣告を受けた直後に、アダムが自分の妻に「生命」「生命を生み出す者」という名前を付けたことにアダムの信仰がよく現れています。神様がこの女の子孫からやがて救い主が生まれるという約束をされましたね。つまり、アダムはその約束を信じたわけです。この女性から、やがて我々を救い出してくれるメシアが生まれる。だから、それを生み出すお前は「エバ」だ。と妻に名前をつけたわけです。
2.皮の衣
このアダムの信仰に答えるかのように、神様も行動を起こされます。21節「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着させられた。」アダムとエバは、イチジクの葉を綴り合わせたものを着ていましたが、イチジクの葉は毎日新しい物を作らないといけなかった。そこで、神様は動物の毛皮で衣を作りアダムとエバに着させたのです。これには2つの意味があります。1つは、人間の罪を覆い隠すものは、人間の業ではダメだ。ということを、改めて教えるために、2つ目は、動物の毛皮を提供するということは、その前に動物が殺されなければならない。つまり人間の罪の身代わりに動物が殺されなければならない。この出来事が、やがて私たちの罪の身代わりとなって、神の御子イエス様が、神の子羊と呼ばれたイエス様が、私たちの代わりに死んでくださることによって、私たちはイエス様が与えてくださる義の衣を着ることができる。というこの福音のことを、ここで予告しているわけです。
3.楽園からの追放
そして、人間のためにもう一つ神様がされたことは、22節「見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」どうして、罪を犯したアダムとエバを、エデンの園から追い出し、いのちの木から食べない様にすることが、神の愛なのでしょうか。人間は、死ぬようになったけれども、すぐには死なない。死に至るまで、老化が始まっていくのです。老化しながら、生き続けなければならない。そんな悲惨なことが人類に起きないように。いのちの木から遠ざけた。追い出したのです。神の愛です。この日以来、人間は失った楽園を夢見るようになります。完璧な世界です。実は、神様は、皆さんのために、素晴らしい世界を用意なさっています。それは黙示録で学んだ千年王国という時代です。イエス様が地上再臨され、この地上でイエス様が、直接王として全てを支配なさる完璧な世界です。なぜ、新天新地の前に千年王国があるのか。それは、創世記の時代に壊れてしまった完璧な世界を私たちに見せるためです。また、24節「いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置かれた。」ため誰もいのちの木に近づけなくなったが、イエス様が、炎の剣が回る道に飛び込んでいき(十字架の贖い)、いのちの木への道を再び開いてくださったのです。その神様の大きな愛に支えられていることに感謝しながら、今週も歩んでいきたいと思います。(T・H)