「牧師夫人の徒然なるままに」(八八四)「すべての人を照らすまことの光があって、世にきた」口語訳(ヨハネ1・9)
思い返しています。イエスさまと出会ってから、いったい何度のクリスマスをお祝いしてきたでしょうか。何度、イエスさまというまことの光を私自身が享受してきたでしょうか。
何年か前、クリスマスのシーズンを前に義妹にふざけてメールをしたことがありました。「毎年、この季節は街中の華やかなクリスマスのお祝いムードとは異なり、私はクリスマスならぬクルシミマスをむかえる忙殺される日々です」と。
こと、キリスト教会の厳粛な行事に際してそれを戯れの材料にしてしまう感性を私自身とても恥ずかしく思いますが、悲しいことに、あまりにも忙しすぎると本質を忘れて目の前の仕事をこなしきることだけに、心が奪われてしまいがちです。
洗礼を受けて初めてのクリスマスを覚えています。厳かにリードオルガンが奏でるキャロルの響き、穏やかな光を放つキャンドルの揺らめきの中、平安を与えてくださるイエスさまのご降誕が優しくひしひしと我が心に迫って来たものでした。
クリスマスだけは「慣れ」や「惰性」で臨みたくないです。物理的には無理でも、時空を超えた平安の静けさの中でまことの光と対面できるクリスマスを!
安食道子