「牧師夫人の徒然なるままに」(八五三)「野のゆりがどうして育つのか」 (マタ6・28)
植物の可憐さ、美しさを見て心が慰められない人はいないと思います。いったい植物は何のために、美しく着飾っているのでしょうか。どんな嫌われ者の雑草でも、じっと見ているとそれが結ぶ花や実はとても可愛く思えてきます。植物の存在そのものは、ひとしく神さまを賛美することに向けられているのです。
誰も見ていなくても、ひっそりと山奥で生涯を終える植物もいます。人に踏まれても恐ろしい除草剤の毒にやられても、なんとしても生き延びようと必死にうめいて子孫を残そうとする姿は、いじらしいほどに創造主への賛美なのではないでしょうか。
私は、田舎で生まれ育ちましたが、それほど、植物への関心はありませんでした。植物の命をいとおしいと思い始めたのは、クリスチャンになってからです。
罪のために素直に創造主を見上げられなくなってしまった人間とは異なり、植物の使命はひたすらに創造主を見上げること、おそらくはそれ以外には何もないのでしょう。その姿を見る時、私は心が素直になります。そして、何よりも嬉しいのはそんな植物の「創造主への賛美」の手助けができるのだと判ったことです。
夫が迷惑がるほどに、植物を飼いならしています。水を注ぎ話しかける時の喜びは、同時に創造主への私の感謝と賛美でもあります。
安食道子