「牧師夫人の徒然なるままに」(八六二)「親切なことばは蜂蜜、たましいに甘く骨を健やかにする」(箴16・24)
先日、密かに成した奉仕が、ある方の目に留まりました。「きっと〇〇さんがなさったのね。いつも感謝ですね」とその方は言いました。私は心の中で「違います。この私がしたのです!」と叫んでいました。
イエスさまは「右の手がしたことを左の手にも知らせるな」と言われました。自分の善行を誇るなという戒めでしょうか。この戒めに従いたいと思いつつも、心の深いところから「認められたい」という思いは湧き出てきます。生涯工事中人間の私は、律法的にふるまうことで、表面的には制していますが、本音は「褒められたい。認められたい」なのです。
私の夫はめったに私を褒めてはくれません。当初は、私の行為が、夫の「褒めるレベル」ではないからなのだと思っていましたが、ある時に別の意図を知りました。「褒めてもらっていい気になったり、誇ったりすると天国でのご褒美が減るからなあ」と。それなら、私も夫を褒めるのは止めよう!と対抗手段にでることにしました。
ところがそんな決意を忘れてちょっと褒めてみました。その時の夫の嬉しそうな顔が忘れられません。
本人が誇らなくても、どんどん褒めましょうよ!!それでたましいが健やかになる人がいるのなら。
安食道子
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