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「牧師夫人の徒然なるままに」(八五一)「私たちは、見えるものにではなく 見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続く からです。」(Ⅱコリント書4・18)  

 先日ある方との間で茶道が話題に上りました。難しく細やかな所作を通して立てられるお茶は、日本の誇るべき文化です。でも、その時にこんな話が出ました。「いったい、そうやって立てたお茶と、雑談しながら作ったお茶と、どんな風に味が違うのでしょうかね」

 もし、科学的な成分分析をするならば抹茶の量と加えるお湯の量、撹拌のスピードと回数が同じなら、おそらく同じ味のものが出来るのではないでしょうか。もし、そうなら、あの長々しくも仰々しい儀式に、いったい何の意味があるというのでしょうか。と、まあそんなことをつぶやいた会話でした。

 皆さんは、見えないものに宿る力を信じますか?お茶をたてるひとつひとつの細やかな所作を通して、その場を不思議な力が支配するとは思いませんか。だから、きっと立てられたお茶もひときわおいしいのです。明らかに、科学の分析を越えた味わいがそこに生れるのです。私にはそのように思えます。

 信仰による行いも同じでしょう。心を込めてする奉仕には、不思議な力が加わります。祈りはその顕著な例です。見えないものをこそ大切にしたいと思います。

安食道子

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