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メッセージ要約 2024.5.5 「隔ての幕が裂けた時」
○マルコ15章33―39
イエス様は午前9時から午後3時の6時間の間十字架につけられました。
後半の3時間の場面から「隔ての幕が裂けた時」という題で3つのポイントで見て行きたいと思います。
1.全地が暗くなった
イエス様が十字架につけられた正午に全地が暗闇となる不思議な自然現象が起こったと書かれています。当時中東にいて十字架の出来事を知らなかった歴史家たちもこの時の出来事を記録しており、聖書の記述が真実であったことを示しています。
その十字架の暗闇の時間はイエス様にとってどのような意味があったのでしょうか?それはその時間がイエス様にとって深い哀しみを体験する時でした。
十字架刑は歴史上最も残酷な刑であると言われています。しかし、イエス様にとって十字架上での最大の苦しみは、肉体的苦痛ではなく、それまで完全に一つであった父なる神から呪われて見捨てられることでした。イエス様は全人類の罪を背負うことで、神の怒りを一身に受けられましたが、その痛みは想像を絶するほどの苦しみだったと思います。
エジプトのディオゲネスという科学者は十字架の出来事を知りませんでしたが、全地が暗くなった現象についてするどい霊的洞察力を持ってこの出来事を記録しています。「太陽が暗闇に覆われてしまった。それは例えれば神ご自身が死んだか、あるいは死に行く人に対して、神ご自身が非常に大きな同情心を示したかのような暗闇であった」
その時、ゴルゴダではそのようなことが起きていました
2.詩篇22編を引用した意味
①今の自分の心境を表すため
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」当時のユダヤ人は苦しみの中詩篇22編を口にすることが多かったと言われています。
イエス様は罪を背負うことで父なる神の怒りを一身に受け見捨てられたのですが、その苦しみを表す心境を表していたのが詩篇22編です。
②預言の成就が今起こっていることを知らせるため
詩篇22編は当時のユダヤ人にとってメシア預言としても有名な箇所でした。書いたのはダビデですが、聖霊によってやがて現れるメシアの受難を預言しています。
この詩篇22編は、まさにこの時十字架上のイエス様に起こっていることが記されている預言の箇所であり、イエス様は22篇を引用することで、今メシア預言が成就していることを宣言しています。
③私たちの代わりに叫んだ言葉
「わが神、わが神どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
実はこの言葉は私たちが死にゆく中で、罪ゆえに滅びに向かうなかで叫ぶべき言葉だったのです。しかし私たちの代わりにイエス様がここで叫んでくださったのです。
それは私たちが神から捨てられる代わりにイエス様が死んでくれているということの表現であり、イエス様はその言葉を持って私たちの身代わりになったことを宣言されたのです。
④十字架の苦しみは苦しみでは終わらない、勝利で終わることを知らせるため
この22編を最後まで読むと、描かれているのは苦しみの中にありながらも信仰を失ってはいない信仰者の姿です。後半に行くと神への信頼と賛美に変わっていきます。最後は勝利で終わっており、イエス様はそこまで意図してこの詩編を引用して叫んでいるのです。
今は十字架の苦しみの中にいますが、最後は父なる神が引き上げてくれて、復活という勝利で終わる。そのことを宣言するために引用されました。
3.100人隊長の救い
神殿の幕が教えるのは、神と人との間には隔たりがあり、聖い神には罪深い人が近付くのがいかに難しいかを示します。しかし、この神殿の隔ての幕が上から下に裂けたのです。
この出来事は何を表しているのでしょうか?それは至聖所に大祭司しか入れないという時代は終わり、これからは誰であっても異邦人であっても、救いを受け取った者は罪赦されて大胆に主のみ座に立つことが赦される時代が来るんだと予表しています。
この幕が裂けた出来事の直後に、異邦人である百人隊長の救いが記されています。
彼の仕事は十字架刑が正しく執行されるかどうかを監視する役目でしたが、イエス様の十字架刑の一部始終を見た時に信仰告白に導かれました。
神殿の幕が裂けたこと、百人隊長の救い、これらが並行して記されたのは、異邦人であっても誰であっても、罪赦されて神の御前に立つことが出来る時代が来たことを意味します。
現代の私たちは旧約時代の幾重にもある儀式を通ることなく、神の御前に立つことが出来ることは特別なことです。十二弟子のヨハネは十字架の後、私たちと神の関係が変化したと言います。
私たちは旧約の人たちが願っても得られなかった神との親しい関係を築くことが許されているのです。まさに恵みの時代に私たちは生きているのです。その特権を生かしきれていないならもったいないと思います。
私たちはまだイエス様を知らないその人がイエス様と出会ったら素晴らしい人生が開かれていく。人生が変えられていく。そのことをイメージしながら福音を伝えるものでありましょう(M.N)