「牧師夫人の徒然なるままに」(八一二)「信仰も、もし行いが無かったなら、それだけでは死んだものです」(ヤコブ2・17)
イエスさまの十字架の贖いを受け入れて、天国行きの切符をいただいたら、もう安心、あとは天国の門に自動的に入れていただける日までひねもすのたりのたりの人生を過ごそうと放言するクリスチャンは、よもやいないとは思いますが、知らず知らずのうちに「恵みが増し加わるために、罪の中にとどまる」(ロマ6・1)生活に甘んじてしまう場合があります。
先日、そんな「のたりのたりの人生」を覚醒させてくれるたとえに出会いました。題して「信仰と行いについてのサーカス芸人のたとえ」です。言い得て妙だと感心しましたのでここに紹介させていただきます。
ある人がサーカスの綱渡りの芸人に雇ってもらいました。その職は無償で与えられました。彼は救いを受けたクリスチャンを表しています。彼の芸をする真下にはいつもセイフティーネットが張られています。それは神の恵みを表しています。さて、この芸人がもし、セイフティーネットが張られているからと安心して練習を怠っていたらどうでしょうか。ネットにいつも落ち続けていたら観客に何の感動も与えられないでしょう。彼の演技は行いです。証です。それは日々の練習、訓練があって初めて観客を魅了出来るのです。信仰にもこの「行い」が必要なのです。証をするためには。
安食道子
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