メッセージ要約 2024.3.3 「私はイエスを知っている」
2024.3.3「私はイエスを知っている」
○マルコ14章66-72
「私はイエスを知っている」というテーマで3つのポイントで見ていきたいと思います。
1.ペテロの裏切り
イエス様は、過ぎ越しの食事を終えてゲッセマネに向かう途中、弟子たちの裏切りを予告します。ペテロは「たとえ他のものが裏切っても私は裏切りません」と答えますが、「今夜鶏が二度泣く前に、あなたは三度わたしを知らないという」とイエス様は言います。その言葉が文字通り成就していきます。
ペテロは官邸の中庭でイエス様の裁判が終わるのを待っていると、大祭司の召使が「あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいましたね。」と尋ねます。「何を言っているのか分からない。理解できない」とペテロは答えて出口近くに移動すると、1回目の鶏が鳴く声が聞こえます。次に別の召使いが「この人はあの人たちの仲間です」と叫び、かなり気まずい状況ですが、ペテロは再び否定します。マタイの並行箇所では「誓ってそんな人はいない」とあります。当時、ここでの誓うとは、もし嘘だったら神が私を打って死をもたらしても構わないという意味です。
そして3度目に、周りの人たちはガリラヤ訛りがあった事に気付き「確かに、あなたはあの人たちの仲間だ。ガリラヤ人だから」と問い詰めます。慌てたペテロは噓なら呪われてもよいと誓い始め「私は、あなたがたが話しているその人を知らない」と裏切りの言葉が強いものになっていったのです。すると2回目鶏が泣き、イエス様のいう通りになるのです。
2. イエス様の憐れみ
2回目鶏の声が鳴いた時、ルカの並行記事には「主は振り向いてペテロを見つめられた」とあり、裁判を終えて出てきたイエス様とペテロは目があいました。この時のイエス様の眼差しは裏切りへの怒りの眼差しではなく、慰めの眼差しでした「私は全て知っていた。あらかじめ裏切りを伝えておいたのは、お前をすでに赦していることを伝えたかったからだ。」そのことを思い出したペテロは泣き崩れます。この時流したペテロの涙は、イエス様の愛の前に圧倒され悔い改めに至る涙だったのです。
このペテロの裏切りの場面で、同じようにイエス様を裏切ったユダの姿が引き合いによく出されます。ユダもイエスを裏切った後、自分のしたことを銀貨三十枚で「私は罪のない人を売ってしまった」と「後悔」を表しています。そしてユダは自らの命を絶ってしまうのです。死んでお詫びしますということですが、ユダの間違いでありペテロとの最大の違いだったのです。
2人とも自分の都合でイエス様を裏切り、取り返しのつかないように思えることをしましたが、イエス様は2人を愛しておられ同じように悔い改める機会を与えていたのです。
裏切りの時にペテロに向けたイエス様の眼差しとゲッセマネで裏切ったユダに「友よ」と呼びかけた時の眼差しは同じであったと思います。
この2人の違いは、その罪の解決をどこに求めたかということです。
ユダの間違いは自分の罪に対して自分で罰を下してしまった点です。
ユダがすべきは、銀貨を神殿に返すことでも自ら命を立つことでもなくイエス様のもとに行って悔い改めることだったのです。自分の罪の解決をイエス様の愛の中に見出せなかったことがユダの最大の失敗だったのです。彼は「後悔」しましたが、悔い改めには至らなかったのです。しかしペテロは罪を犯した時「悔い改め」、その罪の解決をイエス様に求めて帰ってきました。
私たちも罪の中を歩んでしまった時でも、悔い改めて目を上げる時は、イエス様はペテロを見つめた愛の眼差しと同じく、私たちにも向けてくださります。
3. 使徒として歩んだペテロ
マルコの福音書はペテロの恥とも言える出来事を包み隠さず残しました。彼に示されたイエス様の憐れみが、時代を超えてそれを読んでいる私たちにも注がれることを示すためです。
復活後、ガリラヤ湖畔でイエス様が3度イエスを知らないと言ったペテロに3度私を愛するかと聞かれる場面です。十字架と復活を目撃し、ガリラヤ湖畔でのイエス様の愛と憐れみに出会ったとき彼は変えられました。彼はその後
死を恐れずイエスキリストの十字架の救いを宣べ伝えるものと変えられていったのです。そして彼はもはや「私はイエスを知らない」とは言わず、最後は殉教していきます。
イエス様の命を捨てて自分を救ってくださった十字架の愛に出会った時、私たちはどうでしょうか?日本はクリスチャン人口が少なく、宗教への偏見も強い社会の中で自分がクリスチャンと宣言するのは少なからずハードルがあります。職場や友人関係の中、イエス様を知らないと否んでしまう瞬間はありませんか。しかし私たちはペテロのように十字架の死と復活を知り、イエス様がどれほど私を愛してくださったか、そのことを頭ではなく心で知った時、変えられていくのです。イエス様の愛を深く知る時、私はイエスを知っている。信仰に誇りを持って宣言できるものと変えられていきます。(M.N)
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