メッセージ要約 2024.11.17 「ベソル川のほとりの恵」
○Ⅰサムエル記30章「ベソル川のほとりの恵」(安食滋良牧師)
子どものころは、自分のものは、自分だけで独占したいという気持ちが強いですが、成長するにつれて、持っているものを誰かと分かち合う、誰かに分け与える喜びというものを、経験していくものです。今日の箇所も、受けた恵みを、周りの人に等しく与えるということを教えている箇所になります。
前回見た25章のナバルとアビガエルの話から、今回の30章まで、どのような出来事があったのかを見ていくと、エンゲディで、ダビデの赦しを通してサウルは食い改め、まあ数年間は、大人しくしていました。しかし、再び嫉妬に燃えたサウルは、ダビデの命を狙おうとします。そんなサウルに対してダビデは、ハキラの丘という場所で、再びサウルに赦しを差し出します。サウルは再び悔い改めますが、ダビデはサウルとは別れて、敵国であるペリシテの地に身を潜めるようになります。そこでダビデは、ペリシテの王アキシュという人に忠実に使えながら、身を潜めるわけです。しかしそのことで、アキシュの信頼をある意味強く得すぎてしまい、アキシュは、ペリシテとイスラエルとの戦いにダビデを、自分の味方として連れて行こうとします。しかし ここで神様の介入があり、同じペリシテの王がダビデを連れていくことに反対したため、ダビデは定住していたツィクラグという場所に帰ることができたのですが、そこで今回の事件が起こります。
今日は、ここから「ベソル川のほとりの恵み」という題で大きく2つのポイントで、メッセージしていきたいと思います。
1.ベソル川での出来事
ダビデと部下たちが、ツィクラグに帰った時、大変なことが起こっていました。何者かが、彼らの宿営を焼き払い、家族を連れ去ってしまっていたのです。戻ってきたダビデたちは、その惨状を見て絶望し、誰が襲ってきたかもわからないまま、彼らは泣くしかありませんでした。この時600名の部下たちは、行き場の無い怒りをダビデにぶつけます。しかし、ダビデは悲しみの中で、神様に目を向け、神の声を聞きます。『あの略奪隊を追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。』すると神の答えは、『追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。』というものでした。ダビデに与えられた神の啓示に対し、600名の部下は、もう一度ダビデを信頼し、共に歩む道を選択します。ダビデは正体不明の略奪隊がどこから来たのかを考え、消去法で南に向かい、ツィクラグから24km離れたベソル川のほとりまで進軍しました。
しかし、そこで100kmの道を歩く強行軍に疲れた200名が、体力の限界で動けなくなってしまった。そこでダビデは、200人をそこで休ませ、残り400人と共に川を渡ります。そこで、ダビデは行倒れのエジプト人を助け、彼から略奪隊は、アマレク人であることを知ります。ダビデはそのエジプト人に案内してもらい、アマレクの野営を見つけ、丸1日戦い勝利を収めます。家族子どもを取り戻し、分捕り物も得ます。そしてベソル川のほとりに戻りますが、そこで戦った400名の人の数人が、分捕り物について、「待っていた200人には分けるわけにはいかない。」と主張します。
しかし、ダビデは、これは、主が与えてくださった勝利なのだから、動けなくなっていた200名にも同じ報酬を与えるそのことを提案し、それが今後のイスラエルの掟となっていくのです。
2.ダビデが200名に示した恵みから考える
「戦った者がより多くの報酬を得る」というのは、理解できるし、世間一般の価値観だと思います。しかし、ダビデはそうしなかった。ダビデが示した価値観は、神の国の価値観を示していたと言えます。このダビデが200名に示した恵みから3つの摘要(要約)をします。
① 救いについて
このダビデの示した恵みを思う時に、真っ先に思い浮かぶのが、神様が私たちに与えてくださった救いについてです。
聖書は、救いを得るために何が必要と書いてありますか。エペソ2:8-9に、「この恵みゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたかた出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」とある様に、救いを得るためには、行いは一切要らない。信仰によって、救いというのは神様からの一方的な恵みとして与えられる。それが、イエス様の十字架の恵みです。しかし、世の中の価値観は、行いを重視します。キリスト教の異端や多くの宗教が行いを救いの条件にしているのは、世の価値観と同じなので、スッと入ってくるからです。しかし、イエス様は、十字架の救いを行いではなく、信仰によって与えてくださいました。なぜか、それは、全ての人(子どもや老人、障がい者など)が救いに与るためでした。
② 教会に集う人々に関して
教会には様々な人がいます。活発な人で常に満たされている人がいる一方で、人生の様々な問題で疲れきってしまっている人たちもいます。子育ての問題、多忙な仕事、家族の様々な問題、本当に礼拝に来るだけで精一杯。ベソル川のほとりで動けなくなっている人たちもいるわけです。教会は、様々な人たちがいて、イエス・キリストを頭とする各器官、体の器官であり、それぞれ助け合っており、必要ない器官など1つもない。必要ない人など1人もいない。それが教会の姿なのです。ベソル川のほとりで動けなくなっている人がいるならば、他の元気な器官がそれを包み込む、そのようなものでありたいものです。
③ 宣教師と支える人たちに関して
この時、ベソル川で止まっていた200名は何をしていたんでしょうか。彼らは、実際に行けない罪悪感を抱えながらも、家族のために祈り、400名の仲間たちが勝利を収めることができるように執り成していたと思います。神様は、その200名の取りなしの祈りを聞かれて、勝利をもたらしてくださったんです。これは、教会における宣教師と宣教師を送り出す者の働きと似ています。宣教師も、教会で祈り、捧げる人びとがいなければ、宣教のミッションを達成できない。私たちは、ベソル川のほとりの200人のように、宣教師を支えていきたいと思います。(T・H)