「牧師夫人の徒然なるままに」(八一五)「一つの幸せの分け前」

 私は時々、幸福感を満喫できなくなります。それは忙殺されている時に起こりがちです。自分で引き受けた仕事であるにも関わらず、時間の配分等がうまくいかなくなり、苛立ちとともに幸せ気分が崩れ去るのです。インマヌエルなるお方が常に共にいてくださるという平安は深いところで覚えられるのですが、私の全身はその平安を表現出来なくなるのです。

 その日もそうでした。あれをして、次はこれをして、それが終わるとあの事、この事を、と終わりのない課題に振り回されて苛立っていました。その時に帰国中の娘を訪ねて来た方が、娘に不思議な質問をしました。「あなたの幸福度は五段階の何番目ですか?」娘は「四です」と答えました。「なぜ五ではないのですか?」「それは、夫が今一緒にいないからです」娘は笑顔で答えました。

 娘の母親として、なんと幸せな一言だったことでしょう。配偶者の不在を寂しがる娘に「幸せな結婚生活をしているのだなあ」と深い安堵を覚えました。その瞬間に私の「忙殺による苛立ち」がたちまち消え去りました。まるでなくした銀貨を見つけた時や迷った羊を見つけた時(ルカ一五章)の喜びの様でした。小さな幸せを受け取る時、人はすべての思い煩いから解放されることがあるのです。ありがたい分け前でした。

安食道子

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