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メッセージ要約 2024.12.29 「ウザの死を通して」
「ウザの死を通して」 ○サムエル記 第二 6章1~8節
一部分だけ見るのと広い視野で見るのとでは印象が変わることがある。今日の箇所もそうである。王になったダビデは、契約の箱をアビナダブの家からエルサレムに移そうとした。アビナダブ家の子であるウザとアフヨが荷車を牛に引かせながら運んだ。しかし、牛がよろめいて箱が落ちそうになったので、ウザが箱を手で押さえたところ、ウザは神様に打たれて死んだ。ウザは善意で箱を押さえたのに、神に打たれ死ぬなんて、神様は何てひどい方だと思わなかっただろうか。しかし、広い視野で見ると印象が変わってくる。
今日は、「ウザの死を通して」という題で、3つのポイントからみていきたい。
1.神の方法に従う大切さ
そもそも契約の箱の運び方に問題があった。民数記4章15節によれば、契約の箱を運べるのは、レビ人のケハテ族だけだった。ウザはケハテ族ではなかった。たとえケハテ族であっても、担ぎ棒を通して運ぶのであって、決して荷車で運んだり、直接触ったりしてはいけなかった。罪のある者が、聖なる神の前に立てば、一瞬で亡くなってしまう。神様は、人が聖なるものに触れて死ぬことがないように、こうするとよいというルールをたくさん旧約聖書の中に記している。ウザは、この神様の方法に反したため、打たれて死んでしまった。ウザが打たれたのは、彼自身の責任であると同時に、リーダーであるダビデの責任でもあった。
時に人は、神が定めた方法ではなく、自分たちの思いで神の教えを変えてしまうことがある。その1つに異端の問題がある。異端に共通する問題は、救いに行いを付け足すということである。聖書は、救いは信仰によってのみ与えられるものだと教えている。私たちは、神の教えを自分の思いで変えてはならないということをウザの姿から学びたい。
2.神に従わないものの永遠の姿
聖書ははっきりと、人は死後神の裁きの御座に立ち、そこで永遠が決まると教えている。私たちは神様の愛の側面に目が行きがちだが、神様は愛であると同時に義なる方である。神様は聖なる方であるがゆえに罪を見過ごすことができない。私たちは、罪の問題を抱えたままでいるなら、死後永遠の滅びに向かう現実があることを忘れてはならない。人が罪の問題をそのままにするならどのような運命をたどるのか、ウザの姿から覚えたい。人の罪を指摘することは難しいが、人が自分の罪の問題を自覚するなら、イエス様に続く道を備えることになる。
3.暗闇の中で光を見出す
ウザが契約の箱を軽視した理由は、慣れである。私たちもイエス様との関係を軽視してしまうことがないだろうか。私たちは、罪のゆえに本来神様と交わることができない存在であったということを忘れてはならない。私たちが、ウザの姿に自分自身を重ねて暗闇の中でイエス様を見上げるときに、イエス様が成し遂げてくださった十字架の希望の光が、はっきりと心の中で輝く。イエス様は、私たちの罪の問題を解決し、救いの道を開いてくださった。この救いを受け取るなら、私たちは罪赦されて神様と親しい関係をもつことができる。イエス様は、私たちを友として招いてくださっている。〈ヨハネ15:15〉「わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。」
私たちはウザの姿から、どれほど私たちに大きな恵みが差し出されているのか、この朝覚えたいと思う。