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メッセージ要約 2024.10.13 「エンゲディでの赦し」

○Ⅰサムエル記24章1節~16節「エンゲディでの赦し」(安食滋良牧師)
 現代は、怒りをうまくコントロールする「アンガー・マネージメント」というのがよく言われますが、聖書の中に、私たちの怒りに対する1つの解決法が書かれています。それが赦しです。今日はダビデが自分の命を狙うサウルに赦しを差し出す。そのような場面を共に見ていきたいと思います。

 今日の箇所の背景ですが、ダビデはサウルの一方的な嫉妬によって命が狙われていました。サウルから逃げる中で、ダビデを助けた祭司アヒメレク、ノブの町の祭司もサウルによって殺されてしまう。ダビデはいろいろな町に身を潜めますが、ダビデを匿うと殺される可能性のある町の人々は、サウルにダビデの居場所を密告するようになっていました。今日の箇所でも、サウルにダビデの居場所を告げる者がいたと書かれています。「ダビデは今、エンゲディの荒野にいます。」それを聞いたサウルは、三千の兵を率いて、ダビデの元に行ったと書かれています。ダビデの5倍の兵力です。エンゲディという場所は、「子やぎの泉」という意味で、死海の近くで洞窟や洞穴など隠れ場が多くあった。今日はこの箇所から、「エンゲディでの許し」と題し3つのポイントで見ていきます。

1.ダビデの赦し

 今日の箇所で、ダビデを追って、エンゲディに着いたサウルは、洞穴を見つけると、用をたすために中に入りました。しかし、その洞窟の奥には、ダビデとその部下たちが潜んでいる洞窟でした。もう神様が御膳立てしてくださったとしか言いようがないようなタイミングで、サウルが丸腰で入ってきたので、部下たちは歓喜して、ダビデにこう言います。「今日こそ、主があなた様に、『見よ、わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたの良いと思うようにせよ』と言われた、その日です。(4節)」しかし、前後の文脈を見ても、神様が、直接ダビデや部下たちにこのような言葉を授けたという箇所はありません。ある学者は、部下たちは申命記23章12~14節が頭に浮かんだのではと推測します。この箇所は、イスラエルの民に自分の陣営を清く保て。という命令であり、陣営を清く保つなら、神はあなた方の手に敵を渡される。という約束が書かれている箇所ですから、その状況を適用したくなる部下の気持ちも分かります。
しかし、ダビデはその様な部下の声に対し、ダビデは、サウルの命を奪わずに、上着をこっそり切るという行動に出ます。これはどういう目的があったかというと、それは、後でサウルにその裾の切れ端を見せてこういうためでした。「私はあなたの命を奪うチャンスがあったけれども、それを奪いませんでした。私はあなたの敵ではありません。」つまり、ダビデはこの時、サウルを許す決断をしたということです。さらに5節で、ダビデは服を切り取ったことを、後悔していますが、その理由は、主が立てた器に対して、剣を向けたということに対して心を痛めたわけです。何度も理不尽な理由で、自分の命を奪おうとするサウルが目の前にいる。神様が与えてくださったチャンスと捉えてもおかしくなかったが、ダビデは、サウルは主が立てられた器だから、自分が手をかけるべきではない。赦しを差し出したのです。

2.赦しに至る葛藤

ある人は、「これはダビデだからできたことなんだ、自分にはとても無理。」そう思うかもしれません。しかし、ダビデもこの決断に至るまで、多くの葛藤を覚えていたのです。なぜなら、呪いの詩篇と言われる詩篇109篇では、ダビデが自分の命を狙うものに対して呪いの言葉をぶつけているからです。今日のダビデの姿から教えられることは、私たちが赦しに至るためには、まず、思いの丈、本音を神様にぶつけるという段階を通る必要があるということです。実は旧約聖書を見ると、神様に不平不満の祈りをする人が多く出て来る(ハバククやエレミヤ、そしてダビデなど)。ここからわかることは、神様は、彼らが思いの丈をぶつけた、その憎しみを込めた祈りを、その通り聞かれるというわけではないけれども、私たちの本音を受け止めてくださるお方であるということです。ダビデは、この時、神様に対して敵への憎しみをぶつける中で、神様からの慰めを受け取っていく。神様が、ダビデの思いを取り扱ってくださるのです。そして、ダビデの祈りに変化が訪れ、詩篇109篇26節の「私の神 主よ 私を助けてください。あなたの恵みによって 私をお救いください。こうして 彼らが知るようにしてください。これは あなたの御手。主よ あなたがそれをなされたのだと。」という祈りに変えられていくのです。怒りをぶつけた後、ダビデの思いの中に神様が働いてくださる。そして、復讐は自分の手ですることではない、神に委ねるべきだ。その中で、神の守りを確信していく。そして、今日の場面でダビデは、サウルへの赦しへと導かれていくわけです。

3.サウルの悔い改め

その後、ダビデは、サウルと対面します。洞窟から、洞穴から出たサウルに、ダビデが「私は、あなたの命を奪うことができたけれども、そうしなかった。私は、あなたの敵ではないのです。」と声をかけます。それは、ダビデの赦しの宣言でもありました。それを見た時に、サウルは「これはおまえの声なのか。わが子ダビデよ」と言った。サウルは声を上げて泣いた。(16節)」「おまえは私より正しい。私によくしてくれたのに、私はお前に悪い仕打ちをした。(17節)」サウルは自分が間違っていて、ダビデが正しかった。そう言ったのです。ダビデの赦しがサウルの心を変えたのです。イエス様は、十字架で赦しの力を証明されました。イエス様は、最後まで、自分を憎み十字架につける者のために、愛と赦しを示し、祈られたからです。私たちも、イエス様の十字の愛と赦しを受け取った者として、職場の中で、友人関係の中で、家庭の中で、その赦しを差し出すものでありましょう。

(T.H)

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