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メッセージ要約 2024.12.8 「アブラハムのホスピタリティ」

○創世記18章1~8節「アブラハムのホスピタリティ」(安食弘幸牧師)

 今日は、はじめに1つの詩を紹介します。「言われてもしないのは、下の下」「言われてするのは、下」「言われなくてもするのは、中」「自ら気づいてするのは 上」「相手に気づかせずにするのは上の上」「寝ている赤ちゃんのおしめを変える母のごとく」この詩は、ホスピタリティ(=おもてなし)は、相手に気づかれないように行うのが、最上のもてなしだと教えてくれます。神様も、私たちに無上の愛を注いでくださっています。太陽の光や雨、酸素など無料で使えます。私たちの身体も、自分の意志では心臓と止めることはできない。私たちは、ある偉大な力によって生かされているということがわかります。私たちが、存在するのに必要な全てのものは 神様からほとんど気づかないうちにそっと差し出されている。最高のおもてなしだと思いませんか?今日は、アブラハムという人物のおもてなしの心を少し考えたいと思います。

1.アブラハムに現れた主

 ホスピタリティ=おもてなしというと、オリンピック招致の際の滝川クリステルさんの「お・も・て・な・し」を思い出しますが、賄賂などがあり、「表なし=裏しかない」ものでしたが、アブラハムのおもてなしは、裏表なし、表だけです。どのようなもてなしかを見てみましょう。アブラハムが、暑い日、この自分の天幕の入り口に座っていると、3人の旅人が、自分の天幕の方にやってきた。実は、この3人の内2人は、天使=御使いたちで、もう一人はイエス様です。「旧約聖書にイエス様が出て来るのか?」もちろん、人としてやって来られたイエス様については、新約聖書からです。でも旧約聖書にも時々、人に見える形で、イエス様が現れる箇所があり、今日の箇所もその一つです。なぜイエス様が、この時、アブラハムを訪ねたのか。2つのメッセージを伝えるためであり、1つは、来年の今頃サラとの間に約束の子イサクが生まれるという嬉しいメッセージ、もう一つは、甥のロトが住んでいるソドムという街を滅ぼすという辛いメッセージでした。

 また、ユダヤ教の伝承によると、この時アブラハムは、割礼を受けて3日目であり、痛みを伴いながら3人の旅人をもてなしたことを想像すると、彼が本当に献身的に働いたことが、よく分かります。

2.アブラハムのもてなし

では、アブラハムは、3人にお客様に対し、「アブラハムはそれを見るなり、彼らを迎えようと天幕の入り口から走って行き、地にひれ伏した。(2節)」と知らず知らずの旅人に最大級の礼儀をもって迎えています。さらに「主よ。もしもよろしければ、どうか、しもべのところを素通りなさらないでください。(3節)」ここで、「主」というのは、神様のことではなく、人間に対する敬称をこめた呼び方です。あくまでも相手の都合を聞いているように、非常に謙遜な物言いです。親切の押し売りではありません。アブラハムは、その旅をしてきた人たちに必要なものを提供するわけですが、中東を旅する人が欲しいものは3つ、①足を洗う冷たい水、②直射日光を避ける木陰、そして③美味しい食事です。これを提供するわけです。その代わりとして、旅人から外部の情報を得るWin-Winの関係でした。

アブラハムはどんなもてなしをしたのか。これは、通常のレベルを遥かに超えています。第1に、まずそれは非常に素早い準備でした。「アブラハムは、天幕のサラのところに急いで行って、『早く、三セアの上等の小麦粉をこねて、パン菓子を作りなさい』と言った。(6節)」「アブラハムは牛のところに走って行き、柔らかくて、おいしそうな子牛を取り、若い者に渡した。若い者は手早くそれを料理した。(7節)」空腹のお客様が、待たされないように「できるだけ早く」というアブラハムのおもてなしの心です。2番目は、上質のもの。「三セアの上等の小麦」「柔らかくて美味しそうな子牛」1番いいものを十分な量(三セアは23リットル)用意した。他にも凝乳と牛乳(ヨーグルトとミルク)を、アブラハム自らが持って来て給仕するという最大級のもてなしを見ず知らずの人に行っているのです。

その結果アブラハムは、素晴らしいメッセージを聞くことになります。「来年の今頃、あなたに息子が生まれる。」もしこの3人が素通りしていったらね、この素晴らしいメッセージを聞くことがなかったと思います。旅人をもてなす。もてなされる方も嬉しい、でも、もてなす方にも豊かな祝福があるということです。ヘブル13章2節に「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、知らずに御使いたちをもてなしました。」とあるのは、アブラハムのことであり、見知らぬ3人に最大級のもてなしをすることで、神様から素晴らしいメッセージを受け取ることができたのです。

3.私たちの訪問者

実は、私たちのところにも訪問者がいるのです。この訪問者を受け入れるか受け入れないかによって、私たちの人生は大きく変わります。その訪問者とは誰か?その訪問者のちょっと言葉を聞いてください。

<黙示録3:20>「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

 この”わたし”というのは、もちろんイエス様です。イエス様が、私たちの心の戸を叩いてらっしゃる。

 「私を入れてほしい、もし私を入れてくれたら、一緒に食事をしようじゃないか。」

 親しい交わりをする。親しい関係になるということです。この言葉は未信者の方を救いに導く際によく使われる箇所ですが、ここで言われているのは、クリスチャン、ラオデキヤの教会のクリスチャンに対する言葉です。彼らも最初は、素晴らしいイエス様との関係を持っていましたが、途中から、イエス様との関係が薄くなってしまった。だから、イエス様は「もう一度、あなたと親しい関係を結びたいから、入れてくれないか。一緒に食事をするような親しい関係を持ちたい、回復したい。」というイエス様の切なるこれは求めです。私たちは、イエス様が素晴らしい人であることを知っています。知りながら、イエス様を選ばない、拒否する人は、愚か者です。このクリスマスの時は、イエス様との関係をもう一度見直すチャンスです。祈りや賛美でイエス様と親しい時を、このクリスマスの時、私たちは送っていきたいと思います。(T・H)

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