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「牧師夫人の徒然なるままに」(八四五)「足のともしび、道の光なるみことば」(詩119)
体のためにと、毎日、決めた運動を続けてきました。お金をかけてGymに通うことは止めて、安全で簡単でどこででもできる運動をいくつか私なりに考案して実行してきました。
始めた当初は、小さなノートに一日の日課を書き込んで終了のチェックを入れていました。やがて軌道に乗ると、毎回の記載が面倒になりました。一年、二年と経過するにつれて、記録の習慣は途絶えました。
そんなある日、書庫の奥から記録のノートが出てきました。懐かしく思い、鼻歌交じりで開いてみた私でしたが、ハッとさせられました。知らず知らずのうちにその運動が型崩れし、回数は減少し、中には消滅してしまったものもありました。
すべては、若かったから、できたことで、今の私には無理だからと言い訳をしようと思いましたが、ノートに従って実行をしてみると今でもやり遂げられる内容だとわかりました。
いったいどこから、どうしてずれて行ってしまったのでしょうか。つまるところは、初心を記したノートから目を離してはいけなかったのです。同じように、この世の風潮は、私たちを容易にみ言葉から遠ざけます。知らず知らずのうちに巧妙に少しずつ。だからこそ、毎日、み言葉への立ち帰りが必要なのです。
安食道子