【発見】慣れから来る失言の悲しさ
政治家や芸能人の失言を見ない日はないほど、こんなにも日々、悲しい言葉があるのかと思うわけですが。
ある日曜、扇子を探しに街に出て、とあるお店の2階に上がるとふんわりお香の匂いに包まれました。
いい匂いだなぁと勝手に日本人を気取っていたのも束の間、扇子探しに明け暮れ、フロアを中を行ったり来たり、上がったり下がったり。
その時にはもうお香の匂いはいずこに。あぁ、意外と人は匂いに慣れるもんだなぁと色々思いはせたわけです。
・昔付き合っていた恋人の香水は
別れた後の方がしみる、鼻が覚えてる、
街でドキッとする
・友達の家の匂いは 玄関>20分後の友達の部屋
となり、トイレに行くまでのその間に匂いが薄まる
・自分の部屋をから外に出て、一旦戻った時
アレこんな匂いだったけ感 がある
と、匂いに慣れるもんだなぁと
そして意外とどんな匂いも大概慣れて
どうでもよくなったり、気にならなくなったり
となるなと。
そこでふと、これは自然とそうなる慣れなのか
自らの適応力がなす技なのか と頭をめぐりました。
そこからさらに、最近よく聞く(見る)失言は、無意識からくる慣れ、それも尊敬もくそもない 馴れ合いからくる無知の言葉だと思ったわけです。
この言葉がどんな意味を持つか、どんな風に受け取るのか、自分というわたし を知らないだれかが受け取る言葉こそ意識しなければならないのにと。
(失言問題の謝罪では、言葉の意味がこうだったと説明ばかりなのは、『君、私が言うことがこういう意味だというのが背景を見てわかるだろ』と理解しない方が悪いと見えるわけで)
無意識に慣れ(合い)の言葉になり、理解されず失言となる。
この構図のように見えました。
決して場に適応する力が作用したわけでなく、気の緩みから来るものですね。
人の適応する力と気を許すということの差って何か、もう少し追ってみたいと思います…