【議論のネタに】本気で殴るとこのサンドバッグは壊れます

表題の感じでマイミクさんたちとディベートごっこ(?)をした時の記事です。こんな感じで様々な意見があっても楽しく建設的な議論ができますよねという事例になるかなと。

■アリ?ナシ?宿題代行サービス、どう思う?
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圧倒的多数の「宿題は自分でやらなけりゃ意味がない」「目前の課題を回避させる親とそれを見て育つ子供、結果は見えている」と言うご意見に私も賛同です。

で、敢えて逆サイドの意見を無理やり頑張ってみます。「サンドバッグとしてツッコミを待つためのもの」ですので、皆様には気軽にツッコミをしてみてください。あくまでも議論遊びの為であって私の本来の意見は代行サービスを使う人間の見識を疑っております。罵詈雑言や罵り系はご容赦ください。

「本気で殴るとこのサンドバッグは壊れます、やさしく殴ってください」

・・・ではむりやりの擁護意見、まいります。

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宿題代行、おおいにありではないか?


むろん、単にサボらせるためだとか、体面を保つためにこのサービスを使うのには反対だ。

たとえば親が自分の子供の状況を把握して、学校の宿題よりも有意義だと思う活動をさせることに使えばよい。進学のために塾に行かせるとか、家族の思い出を優先して旅行に行くとか。要は「宿題よりも有意義だ」と思う活動をさせるのであれば問題はない。

親御さんと業者の2者の合意のもとに行われる「契約」なので法的な瑕疵もない。

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以上、サンドバッグ理論でした。ツッコミ箇所を見極めて殴ってみてください。

としてみました。以下各メンバーのツッコミとサンドバッグ(私)の反論です。

①ブー さん

夏休みの宿題はだいたい初日に終わらせて、受験勉強だったな。小学生のうちなら代行もありやも知れぬ。

②滄海 さん

こういう遊び心に溢れた思考される方は非常に面白いと思うので唐突ですがニュースから失礼します。 そして本気で殴ると壊れる……実に興味深い、どの程度耐久性があるのか試しに壊してみたい(けどパンチ力がないw)

●サンドバッグ(私)のブーさん滄海さんへの返信

>ブーさん
私はキセル型でした。初日に筆記物は全部終わらせた反面、工作や絵画、自由研究などは8月後半に慌てていたパターンです。
・・・あれ、実は擁護っぽい感じですかね。たしかに100対0というほどの極端な議題ではないですけどね。擁護側の言い分にも相応に見るべきものがあるとは思います。

>滄海和菓子Lv.2 さん
コメントありがとうございます。ご新規さんに反応してもらえるのがうれしくてやってるので大変ありがたいです。いわゆる「釣り」とは違うんですが、似たところもあるなと自覚はしております(笑)。

パンチ力に自信がないならためしに思いっきり殴ってみても・・・いやいやいや、実は謙遜しているだけでとんでもないハードパンチャーと言うパターンではありませんか? 私はチキン野郎なので、やはりお手柔らかにフェザータッチでお願いします。

③祐吟@壬生猫 さん

宿題とは、問題解決能力を向上させる為のものなので、他者がそれをする事は、当人が能力向上する機会を奪う……ってのは思い付いた。
後は、『そもそも宿題を解く能力が無いのに、塾に行かせるても、塾の課題について行けないだろうし、宿題を解く能力がありながら、それをせずに塾に行かせるならサボりよね』

●サンドバッグ(私)の③祐吟さんへの返信

①宿題の意義=「自分でやって成長せねば意味がない」を争点にしたツッコミですな。正攻法です。
サンドバッグ側の反論は「親が宿題よりも塾の課題や家族旅行の思い出のほうがより成長度合いが大きいと判断した」「だから宿題代行させる」というものでしょう。

②は宿題と本人(お子さん)の能力の関係に着眼したツッコミ。ちゃんとMECE(ヌケモレなし)なのも良い感じ。
サンドバッグの反論は「わが子は宿題を解く能力は有している。簡単すぎる課題(宿題)に時間を使うのは我が子の成長にとって効率が悪いので、ちょうど良い課題に取り組ませる」「だから宿題代行させる」というところでしょうか。

このサンドバッグの反論にツッコミできないかと考えてみてください。

④ばっきぃさん

家族旅行の思い出などを文章にしたためることで、子どもの語彙力や文章力、感受性を養うために
作文や日記は必要かと思いました。小学生には面倒な宿題ですが^^;
ネタが尽きたときは、一番上の文字を拾って読むと言葉にしたり、回文を作ったりしました。
自由研究以外にも、独創性や発想を養う機会でもあると思います。
宿題を済ませた、という達成感を満たすためにも自分でやる必要性もあるかと。でも「宿題が有意義のあるもの」と思わないから、代行サービスに依頼されるんでしょうけど。

⑤幻矢:人生が放浪者 さん

俺は結構擁護派だからきついなこの御題w
とりあえず前述されている①と②に対して。

長期休みの宿題に対する利点としてまず大前提に「基礎力の向上、補完」があり、成長度合いという点で効率が良い事を挙げておきます。


そして宿題代行サービスをその内容から
A)「ドリル」関係(問題集解き等の単純作業)
B)「自由課題」関係(自由研究や日記、感想文等の思考作業)
の二つに分けておきたいと思います。

A)を自力で解く利点としては
・追いついてない者には追いつく為の勉強効果が見込める。
・既に追い抜いている者でも反復作業や基礎固めにより思考の効率化(条件反射化)が見込める。
があげられ、基礎を固めていくに手軽かつ家計に対して低コストという部分を挙げたい所です。

仮に塾などでより高ランクの問題をこなせているとしても基礎を見直す作業としてドリル系はなるべく自力で。
その方が基礎に穴があったときの修復を早く行うことが出来、相乗効果が見込めます。
なので能力が高いとしても再確認と補強の意味で効果があり、それは高ランクの課題とは相反せず相乗効果を生み出せるものとなります。
なので②に対しては「効率が悪いという事はなく、むしろ互いに補強しあう」と言えるかと。

B)に関しての利点は
・自分で思考して生み出すという作業を鍛錬できる。
・自由研究等はむしろ家族旅行のきっかけにもなり、家族内での対話などを生み出しやすい。
という所です。
学校では行えない事を経験できるのは成長の度合いにおいて大きなアドバンテージでもあり、ものによっては家族旅行等の家庭行事と共存する存在でもあります。

①のうち、家族に関係する成長度合いに対しては前述の通り共存できるものであり、別途用意しなければいけない訳ではないので自力でやる方がより成長度合いが大きかったり絆を深めたりする事が見込めます。

塾に関してはその方向性次第とも言えますが、「自力で思考し、生み出す」という能力は勉学において重要な要素ですので一見関連しないように見えてもこなしていないといるとではテストに対する理解力や姿勢に差が出てきます。
なのでそういった訓練として自力でこなす方が他人任せで自分は塾というやり方よりも基礎部分での成長度合いの向上を見込めるかと。

基礎がしっかりしていないと応用に問題が起きますし、逆に基礎が完全無欠の大城塞なくらい固まっていればその上にどれだけ知識を積み重ねても骨肉としやすく、結果的には効率的です。その為の作業として宿題は自力で解く方が良いかと思われます。

⑥そして さん

そもそも、子供に宿題をやらない事を認める事と、子供に宿題をやらせないが、体面を保つ為に業者に委託する、という事が両立しえない、というような書き方をされているが、そこで既に齟齬をきたしている。

宿題より子供にやらすべき事があると判断し→宿題をやらせずそちらを優先した→宿題を提出しないとなると先生もうるさい子供かわいそう→親としてやってあげるなり手伝ってあげれればよいが時間がなかったり面倒臭い→体面を保つ為業者に委託した。これはごくごく想定しやすい流れである。

そもそも、宿題をやる事による効用と宿題をやる為に確保されうる時間に代替的にやる事の効用を天秤に架けるのは不可能。どのような基準をもってそれぞれの優位性を証明するのか、っていう愚にもつかない話になる。バスケをすることによる体力の漸進と読書感想文、比較出来る訳がない。まぁ、私は、親が宿題をいくら無駄だと踏んでいたとしてね、宿題にまぁ20時間かかるとしてたかだか20時間の無駄だよ?って思うんですね。

●サンドバッグ(私)から

>ばっきぃさん

>家族旅行の思い出などを文章にしたためることで、子どもの語彙力や文章力、感受性を養うために
作文や日記は必要かと思いました。小学生には面倒な宿題ですが^^;
ネタが尽きたときは、一番上の文字を拾って読むと言葉にしたり、回文を作ったりしました。
自由研究以外にも、独創性や発想を養う機会でもあると思います。
宿題を済ませた、という達成感を満たすためにも自分でやる必要性もあるかと。

でも「宿題が有意義のあるもの」と思わないから、代行サービスに依頼されるんでしょうけど。

⇒なるほど。宿題代行の否定やデメリットではなく、宿題を自分でやらせることの肯定、メリットでのご意見ですね。
 ではサンドバッグなり(笑)に反撃をしてみます。もし気が向いたら再反論してみてください。

サンドバッグとしては「あくまでも本人にとって宿題よりも価値ある課題に取り組ませたい」と言う点で反論とします。つまり宿題の有意義、有為性についてはばっきぃさんのご意見を否定しませんし、そもそも否定できません。

ただ数十人の生徒を見ている教師、学校と言うプログラムが与える「宿題と言う課題」は量産型でお仕着せな課題ではないかと。
一方で親はわが子だけを見ています。そんな親が大事な我が子に宿題よりも取り組ませたい課題を見つけた時、宿題代行を使ってでも、わが子により有意義な課題に取り組ませたい・・・という反論をしてみます。 

>幻矢さん

あらら。擁護陣営の方ですか。ある意味歓迎しますよ。皆強いんだもの(笑)。というかサンドバッグ役やりませんか?w

冗談はさておき。幻矢さんのコメントを擁護派側意見として使わせていただきます。大変助かります。

・・・あれ? コメントを読む限り、パターンわけして個々の状況別の両者のメリット・デメリットをバランスよく見ているので完全に擁護派と言う感じでもなさそうですよ?

>そしてさん

>そもそも、子供に宿題をやらない事を認める事と、子供に宿題をやらせないが、体面を保つ為に業者に委託する、という事が両立しえない、というような書き方をされているが、そこで既に齟齬をきたしている。

⇒申し訳ない。ちょっとわかりませんでした。ご指摘部分を引用しつつ教えてください。義務ではなく権利ですのでお気が向いたらでお願いします。


>宿題より子供にやらすべき事があると判断し→宿題をやらせずそちらを優先した→宿題を提出しないとなると先生もうるさい子供かわいそう→親としてやってあげるなり手伝ってあげれればよいが時間がなかったり面倒臭い→体面を保つ為業者に委託した。
これはごくごく想定しやすい流れである。

⇒おっしゃる通りです。一番一般的な代表事例ですね。同意です。

>そもそも、宿題をやる事による効用と宿題をやる為に確保されうる時間に代替的にやる事の効用を天秤に架けるのは不可能。どのような基準をもってそれぞれの優位性を証明するのか、っていう愚にもつかない話になる。バスケをすることによる体力の漸進と読書感想文、比較出来る訳がない。

⇒「課題の種別が違えば虚胃痛の単位もないのだから比較できない」「その基準も優位性も証明できないでしょ?」というご指摘ですね。ううむ、ここにサンドバッグ反論をしてみますね。

事例にあるバスケ(による体力増進)と読書感想文の比較をします。「絶対的価値観でどちらかが必ずもう片方を上回ると証明する!」なんてことは不可能なのはご指摘の通り。ですが、実際に比較して選ぶことは可能です。8月31日、読書感想文の宿題が残っている。でも小学校最後の年にやっと選抜された31日のバスケの試合こども(まあ31日にバスケの試合なんてねぇよwと言えば終わりですが)。さて、宿題が絶対だから読書感想文をやらせるか、それとも体力増進や仲間との思い出のためにバスケの試合に出るか。 たしかに共通の価値単位はありませんが8月31日という限定された時間において、子供がどちらか一つしかできないと「比較する状況」は想定できるかなと。その時、どちらを選ぶのかは親御さんやこども本人の気持ちではないかと。

以上、サンドバッグの反論でした。気が向いたら再反論をしてみてください。


>まぁ、私は、親が宿題をいくら無駄だと踏んでいたとしてね、宿題にまぁ20時間かかるとしてたかだか20時間の無駄だよ?って思うんですね。

⇒わはは。同感です。その「割切ができてる人」にとってはそもそもこのお題が優先順位の低いものになってしまいますね。お付き合いいただき感謝します。

⑥そして さん

わかりづらくてすいません。

A.体面を保つのに宿題代行を使うのは反対

しかし

B.宿題より有意義な事をさせるなら問題ない

と言う訳なんですが

BがAを正当化してるのかどうかがはっきりしてないんですね。つまり、Bが正当化してるのは、子供に宿題を'させない'という事ですよね?親が宿題代行サービスを利用する事ではないし、代行サービスを使う動機でもないはずです。すると、AでありながらBである事は成り立つんじゃないかという事です。つまり論点が代行業者に委託する動機なのか、宿題をさせず代替の有意義な事をやらせる動機なのか、ごっちゃになってるように見える。という事です。


後、バスケと宿題の話ですね。

これはですね色々すっ飛ばしますが、宿題の効能を語ってもしょうがないをじゃないか、って事を言いたかったんですね。勿論、他の有意性のある事と比較してどちらかを選ばなければならない場面も出てくる事もあるでしょう。二者択一でどちらかが犠牲になる。しかしそこには様々な比較要素が出てくる訳で、それこそ家庭の事情とか、比較対象によっても変わってくる訳ですから、そこで宿題の効用、例えば基礎力の充実が云々とかを持ち出した所で一面的な話に終始してしまうと思うんです。まぁちょっとこれは話が脱線してますね。すいません。

●サンドバッグ

>そしてさん

よくわかりました。1つ目はまさに「前提」と「結論」のつなぎ部分、「展開」への攻撃ですね。指摘は的確なのでKO寸前ですが、最後にもうひと粘りしてみます。AやBは流用させてもらいますね。

「AでありながらBであること」は確かに成り立ちます。で、Bと言う目的のためにAと言う手段を用いるわけです。指摘は的確ですが、ならばそれのどこに問題があるでしょうか? むろん、代行サービスを頼まずに親が宿題を代行してあげる選択肢はありえます。ただ、、親も多忙で、金銭で時間を買うという意味で「手段の一つとして代行サービスを使った」 と言うケースに問題点がありますか?(と開き直ってみましょう w) 

次のツッコミでおそらく最後の一撃になる事と思います。きつくなってきました(笑)。


2つ目はおっしゃるとおりですね。まさに「絶対の正解がない」ところでの両者合意、よくある「引き分け決着」の同意を見て終わりかなと。議論は「勝つのは難しい」んですけど、引き分けに持ち込むのはかなり簡単なんですよね。勝敗がはっきりしやすいその他の試合やケンカと大きく異なるのがここです。

理由としては両者とも正しいと思うことで議論が発生するからでしょう。なので片方が明らかに間違った主張をしているのでもない限り一方的な展開にはなりにくいのですね。また、議論の性質上、両者が論理的であれば間違えた部分は認め、論点は集約していきます(私のサンドバッグが相手の主張の的確なところは認めつつ、反論できる部分に反論するというスタイルからしてそうなっていますよね)。最後には両者合意に至るわけです。 これが議論の理想形だと思っていますが、中には7月10日に私の記事にコメントに来たあきかんさんのようなケースもあり、難しいんですけどね。 ・・・と、これは私も脱線しました。

論理的な正しさを主張したいのなら、相手の論理的な正しさを認めなければなりません(仮に感情的にうけいれたくなくとも)。これが「論理的な態度」と言うものなのでしょう。相手が事実を指摘しているのなら、それを否定するにはうそをつかざるをえなくなります。相手の力量が低ければその場しのぎにはなりますが、もし相手の力量が高い場合、そのウソや矛盾に攻撃を受けて却って傷口を拡げたり、いきなりの致命傷になることが多いものです。(証拠を握ったうえで、相手にその証拠に反するウソをつかせてから証拠を突きつける・・・内部監査の世界では常套手段です)

なので、論点にするのは「事実」ではなく「解釈」にするのが「不利な側の基本戦術」です。正論正義で責める側は、この「解釈」の防御をみて隙があれば猛撃を加え、隙がなければ妥協点を探る・・・そのあたりが議論攻防の醍醐味だと勝手に思っております(笑)。

⑤幻矢:人生が放浪者 さん

> ハナーさん 
前回書いたものは一応代行否定派(宿題は自力でやれ)の方向で考えてみた奴です。

まさにマッチポンプな話になりますが、擁護派としての意見として。

まず最初に言う事として前述した文章には暗黙の前提が存在しています。

その子供に対して家庭が協力的であり、不明な所などを師事できる導き手が存在する事。
いくら基礎力を補強できるといってもその子一人でやろうとした場合、間違った方向へ進む可能性もあります。
また、繰り返しのルーチンワークは飽きる事が多々あり、勉強嫌いへの加速に繋がる危険性も。
代行サービスに依頼するような環境の時点で暗黙の前提は守られているのでしょうか。
守られていないのであれば代行に頼む方がまだ前述のデメリットを回避できるだけましなのではないかとも。

読書感想文や自由研究にしても「大人が喜びそうなキーワードをいれる」という小手先のテクニックを効かしたものの方が学校受けの良い作品にしあがりやすく、小さい頃からそういった技術を培うと言えば聞こえがいいですが大人の顔色を観察して立ち回る様になるともいえます。

前提となる周囲の環境次第では代行サービスというのは「メリットがある」ではなく「デメリットを抑える」という意味で存在価値があるのではという結論です。
ここでの視点は宿題の効用ではなく、周囲の環境はどうなのかという部分です。
環境次第では代行は後ろ向きな是として認めてもいいじゃないかというのが俺個人の持論ですね。

⑦闇に従う者(闇従) さん

まずは前提を疑え、という方向で考えてみます。
そもそも「体面を保つためにこのサービスを使わない」ことが本当にありうるのでしょうか?ハナーさんの論では「『宿題よりも有意義』だと思う活動をさせる」のがその一つと言われていますが、その判断は代行を直接頼む親がすることになります。課題が真っ白だったとして、教師は子どもにまずその理由を尋ねることでしょう。そして真っ白なら理由や様子を聞くために保護者である親に連絡が入ることも考えられます。代行サービスはその最後の親への連絡をなくす有力な手段と言えます。「うちはこういう教育方針だ」と教師に伝える手間を省くために使う‥ということにはならないでしょうか。

本当に「宿題より有意義だ」と思っているのなら、子どもに課題真っ白で提出して貰えばよいはずです。教師にもとくとくと説明すればよいでしょう。子どもは自分の実力を適当な時に教師に示せばそれで終わりですしね(実態はともかく教師はある程度受け持ち児童のレベルは把握していてしかるべき)。代行サービスを使う親は「課題をやっている子どもだという結果」を求めていると考えます。それは誰のためでもなく親自身のためであり体面を保つことに他ならないのではないでしょうか。

⑥そして さん

> ハナーさん 

金銭で時間を買うという意味で代行業者を使ったんであって、何も、体面を保つ為ではありません。何か問題ありますか?って事ですね。

その時間というのは宿題をやるための時間な訳ですね。その時間は有意義な事をやる為に廻されたはずですね。だから損ではないし、むしろ宿題より有意義な事をやるために使った時間ですから得をした、と感じてるはずです。得をした、めでたしめでたしです。なのになぜさらに宿題を代行業者に委託する必要性、言ってみれば宿題を完成させる必要性があるのか?って議論になります。これはちょっと論点が外れすぎてます。私が指摘したのは、議題内の文脈の齟齬に関してです。

つまり、子供に宿題をさせない、それ以上に有意義な事がある、しかし宿題は完遂させる、なぜか?体面を保つ為。が成り立つなら、前提はそもそも無化されてますよね?って話ですから。

むろん、体面を保つ為に宿題の代行をだめだ、と断言してる。もし、宿題以上に有意義な事がある場合には代行オッケーなら体面を保つ為に宿題を代行業者に頼むのは良くない。しかし、宿題以上に子供にとって有意義だと判断しうる事があるなら体面を保つ為であっても例外的にオッケーだよね、ってしないといけない。議題のニュアンスでは、なにがなんでも体面を保つ為に代行に頼むのは駄目、って受けとられる。


二つ目です。

つまりこの宿題を代行業者に頼むのは如何なもんか?ってテーマの議論ですが、論点は大きく、

1: そもそも子供に宿題をやらせないのはどうなの?

って事と

2: 業者に金銭を渡してまで宿題を完遂させるのはどうなの?


この二つですよね。ここが混同されてしまってると議論が成り立ちません。

1に関しては、宿題の効用の話だとか、義務教育として学校教育を選んだ以上教師の指示は原則聞かないといけないとかどうとか、義務、倫理感に関わる話が出てきます。まぁ効用については苫米地英人さんとか和田秀樹さんにでも聞いてみたら?と思うけど笑

2:に関しては、体裁を整えるだけの宿題の完遂にどのような利点があるか、とか。親、子供の体面を保つって話ですね。あと、ビジネス化されてる事に対する問題点、とか。現状は法的に瑕疵はないが、しかしどうなの?っていう。


つまり、2の領域で議論するならば2の領域で話をしなければごっちゃごっちゃになります。

宿題の効用が対したことないなら、業者に頼んで良い

これはあからさまに論理の飛躍です。宿題の効用が対したことないなら、白紙で提出しても良い、までです。そしたら、義務教育としてどうなのか?とか、そういう話が出てきます。しかし、子供恥かくよね、って話になると、じゃあ親がやるか手伝うかっていう一選択肢として、宿題代行サービスが今流行ってるんだけど、、って話が出てくるに過ぎません。必ずしも直結する、二者択一の話では無いんですね。

●サンドバッグ

サンドバッグ大人気です(笑)。 そしてさんと闇に従う者さんが要点を的確に射抜いていて、一応それへの答えを考えていたら。先回りして懇切丁寧にサンドバッグを破りに来たのがそしてさんのコメントと言う感じですね(笑)。

ううむ、もはや逃げ切れない感じですね。闇に従う者さん、そしてさんのご指摘でサンドバッグは降参します。まいりました。

 「形だけの反論」ならほぼ無限にできますが、およそ「論理性」を保てなくなります。私のようなかりそめの擁護派ではなく、「本物の擁護派」である幻矢さんがその気ならば引き続き建設的な意見の交換をされても良いかもしれません。

両者が論理的である場合、議論は互いに言い分を認める形になっていくので、究極的には収斂していくことになります。結論が出ないという場合は議論者の少なくとも片方が、あるいは両者が論理性を理解していない場合だけです(結構多いんですけどね)。「勝つのは難しいが引き分け狙いは簡単」と思う主な理由の一つです。

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私見もお聞きください。
冒頭に述べてきた通り、私の本音も「代行否定」と言う結論です。理由は「他の生徒との関係性でフェアではないから」ということです。

①「本人以外が宿題をやったと装うことで生じる他の生徒さんとの不公平」
こちらはあまりご指摘を受けず戦場になりませんでしたが。私としてはこちらのほうに重きを感じております。

つまり、他の生徒さんとの内申点の比較などの時に明らかに不公平なのです。(私の思考の主軸の一つ「機会の平等が保たれているかどうか」です。) 

代行で生徒本人がやっていないにもかかわらず「生徒本人が行ったという体裁で宿題を提出する」のは「生徒さん同士の関係であきらかにフェアではない」わけです。

小学生の夏休みの絵画を美術大の学生が代行することを考えれば不公平はあきらかです。仮に「いかにも本人がやったと装うためにわざとヘタクソにやった場合」でもアウトです。これは代行に限らず親が過度に手伝った場合もあてはまります。本人が遣ったという前提で、他の生徒さんと比較して内申点がつくわけですから。

②「宿題の価値」
この課題はそしてさん、後半は闇に従う者さんも参加されて「主戦場」となりました。すでにご指摘されているように、「宿題にそこまでの価値がない」というのなら堂々と白紙で出すべきなのです。また、代行に本当に問題がないと思うのなら「宿題は代行にさせました」と学校に告げて提出できるはずです。

ではなぜそうしない(できない)のか?

実は「内申点と言う価値がある」ことは親御さんも知っているがために、フェアではないと知りつつ代行が使われてるのではないでしょうか。①とも関連してきますが、やはり代行には大きな問題があると言わざるを得ません。

まあ②についてはほぼそしてさん、さらに闇に従う者さんに言い尽くされております。私のこのコメントは蛇足ですね。


倫理的、あるいは道徳的な観点を重んじる方にとっての正解はまた別にあるのでしょうが。私としては「他の生徒との関係性がフェアではないから代行には問題がある」と考える次第です。①や②を上回る深刻な事情があるのならそれこそ学校に堂々と申告すればよいはずです。


幻矢さんの提示された「デメリットを打ち消せるから代行もアリではないか」と言う論点は次回に考えてみます。論点の提示に感謝します。



CIA(内部監査人)や行政書士資格から「ルールについて」、将棋の趣味から「格上との戦い方」に特化して思考を掘り下げている人間です。