火を噴く人生訓

悩みや問題があるとして。まずは現実的に解決可能かどうかと考える。リソースやコストは有限で貴重なものだ。投下した挙句に成果が上がらないのでは目も当てられない。

結果として考えても満足いく結果が望めないことはガン無視する。その分を解決可能な問題に回した方がましだ。

・・・と言う考えで駒落としの将棋を指した。

先般、飛車香をこちらが落として指した生徒さん。1回目は相手の攻め駒を責めにいったが見落としで角が頓死して負け。2回目の負けは「徹底防戦で受けつぶす」方針の時だった。プロ棋士なら受け切れたのだろうが、わたしは受け切ることができずジリ貧負けを喫した・・・という前振りがある。

で、その生徒さんとなぜか先祖返り(?)して2枚落としで指すことになった。飛車香落としで負けてるのになぜさらに不利な2枚落としで指す羽目になったのかはいまもってよくわからない、人生の妙味とでもいうのだろうか? 

ここで冒頭の人生訓(?)が火を噴くわけだ。人生訓が火を吹いたら怖いんだが。

下手は居飛車風に攻めてきたが完全に攻めを無視して玉頭での接近白兵戦に持ち込む。

長兄曰く「玉頭戦は戦闘突入時の盤上の駒の数の優位で7割が決まる。あと3割は持ち駒をどれだけ投入できるかで決まる」とのことだったので、それを実践。

居飛車の攻めは逆サイドでいかにも遠い。ガン無視されると実は攻めの速度は遅くなるという罠。その間に玉頭での攻めを間に合わせてしまった。前回は下手に受けて傷口を広げたのだが、解決困難な問題を「無視することが正解」ということもあるわけだ。

訳の分からん言いがかりだとか、「成人しているにもかかわらず身長が10センチ伸びればいいなとか」いうのは考えたり悩むだけ無駄な問題の範疇だ。美容整形という改造手術をしてでも身長を伸ばすという決断をしたならば解決可能な問題と言えなくもないが、基本的には悩まず無視するのが良い。

「逃げる(逃亡)」とか「あきらめる(見切り)」と言う言葉にはとかくネガティブなイメージが付きまとうが、私としては必ずしも悪いばかりとは思わない。あくまでも逃亡は「手段」だし、見切りは「判断」である。

手段や判断は良い結果がともなうのなら「良い手段」「好判断」となるものだ。

本文のように一部を見切り、あきらめることで全体での勝利を拾えることは多い。表面的な「逃げ」や「あきらめ」と言う部分だけを見て「そいつはよくない」と断じるのは早計と言うものだ。

相手の攻めに対応するというのはいわば相手の手に価値を与えることになるわけです。「無視」と言うのはいわば相手の手を「対応する価値すらない」と評価しているわけで、ある種最悪の対応なのですよね。ノーガードの殴り合いと言うのは徹底してお互いに相手の手より自分の手の方が価値があるという主張の応酬ですから。

・・・どちらかが必ず間違っていることは、実際の指し手が進めばおのずと明らかになってくるわけですが。

CIA(内部監査人)や行政書士資格から「ルールについて」、将棋の趣味から「格上との戦い方」に特化して思考を掘り下げている人間です。